第88話 もう一つの我が家
「う~、あれから結局一睡も出来なかったぜ」
昨晩の嬢ちゃんの
もしかしなくてもキスって奴だよな?
一体どう言うつもりなんだ? 嬢ちゃんは好きな奴居るって話じゃないか。
頬になら分かるが、口ってのはなぁ~。
それとも、今の若い奴ってお礼にキスするのは当たり前の事だったりするんだろうか?
う~ん、オジサンには若い子の考えが良く分かんねぇや。
「取りあえず、嬢ちゃんの好きな奴に知られたら、そいつも色々と複雑だろう。俺だったら好きと言いながら他の奴とキスなんてされたら面白くねぇし、黙っててやるか。すまんな嬢ちゃんの相手」
恐らく先んじてキスしちまった嬢ちゃんの相手にそっと謝った。
良い歳したおっさんが若い子のキスで寝れなかったなんて恥ずかしいぜ。
気持ちを切り替えるとするか。
なんせ今日は色々とやる事有って忙しいしよ。
「
俺は部屋の中の物を整理し出した。
八年もこの部屋に住んじゃ居るが、特にこれと言って大事な物は置いていねぇ。
殆ど使った事の無い教導役用のギルド規約集や街のお触書等々のゴミばかりだ。
必要な物はバックパックに入れてるし、武器や鎧はギルドに預けている。
住み慣れた場所だったが、仕方無ぇさ。
王宮での話が終わったら一旦この街に帰るつもりでいるが、その足で隣の大陸のアメリア国にタイカ国まで一っ飛びって事も考えられる。
それに、もしかするとそのまま近場の国を回って魔族退治をする羽目になるかもしれねぇ。
生きて帰って来るつもりだが、いつになる事やら。
だからこの部屋も……。
「今までありがとうな」
俺は部屋に別れを告げ、宿屋の一階に向かった。
一階は食堂になっている。
夜は酒場に早変わりだ。
まだ朝は早いが、ちらほらと宿泊客の姿が見えるな。
先日の噴火と『城喰い』出現のパニックで観光客の数が一時よりは減ったと言え、それでも特に被害も無く無事だったって事で『これも女神様の加護のお陰』と人々は称え、再び観光客が集まりだしているらしい。
「おや、ソォータさんがこの時間に降りて来るなんざ。珍しいじゃないか。なんだいそんな所で突っ立って?」
この食堂にも色々と思い出が残っている。
なんせ、十二年の逃亡生活から解放されて、やっと腰を落ち着けた安楽の場所。
このままここでのんびり暮らせればと思っていたが、どうやら運命は見逃しちゃくれねぇ様だ。
少し感傷的な気持ちでこの見慣れた店内を眺めていると、宿屋の女将が声を掛けて来た。
年齢は俺より一回り以上離れちゃいるが、年齢を感じさせねぇぐらいこんな下町で宿屋の女将をしているにゃ勿体無い美人だ。
宿屋の主人である女将の旦那はってぇと、全く逆でまるで熊みたいな大男。
以前その事でからかった事が有るが、怒るかと思いきや延々朝まで二人して馴れ初めからこの宿屋を開くまでの超絶甘ったるいノロケ話を聞かされたっけ。
懐かしいぜ。
旦那の姿が見えねぇ所を見ると、裏で薪でも割ってるのかね。
あいさつしときたかったんだが……。
「あ~、すまん。ちょと野暮用でよ。しばらくこの街から離れる事になってな。急で済まんが部屋の契約を今日で打ち切らせてくれ」
カウンターにいる女将に近付き事情をそう説明した。
まぁ、定期収入が減るんで嫌がられたりするだろうが、この女神フィーバーの最中だ。
俺の安い賃貸料なんかより、観光客相手の商売の方が実入りは上がるだろ。
「……そうかい。それは寂しくなるねぇ」
ありゃ? それだけ? もっと驚いたりとかねぇの?
もっと『いかないで!』とか引き止められたりするかとちょっと期待していたんだが……。
う~ん、契約終わったら客じゃないって事?
それこそ寂しいねぇ~、これが商売人って奴か。
「あぁ、部屋はちっとばかし散らかってるが、これを掃除代にでもしてくれ」
日割りの部屋使用分に加えて掃除代に今までの感謝って意味も込めて金貨一枚をカウンターに置いた。
俺のなけなしの金だ。
相場の数倍、しかし八年の汚れを落とすにゃこれくらい必要だろうさ。
「こんなの受け取れないよ。あんたお金無いんだろ? 無理しなさんなって」
俺が大金を出した事に女将は呆れた顔でそう言って来た。
まぁ、言われる通りだが、これはケジメみてねぇなもんだからな。
受け取ってもらうぜ。
「いいからいいから。俺最近ダンス講師やらなんやらで実入りが良いんだよ。だから遠慮すんなって」
「……。ちょっと~あんた~! こっち来て~!」
女将は俺の言葉に何も答えず、裏口の方に向かって大声を上げた。
どうやら旦那を呼んでいる様だ。
まぁ、こっちとしても挨拶したかったからありがてぇや。
「どうした~? なんかトラブルでも有ったのか~?」
巨体に似合わず少々のんびり屋の旦那は、その性格と同じようにのんきな声で裏口から姿を現した。
「よぉ旦那! 実はちょっと街から離れなきゃいけねぇ事になってよ。すぐに帰れそうもねぇから部屋の契約解除してくれねぇか?」
「それは構わないが、その金は受け取れないな」
女将と同じく即答で契約解除を了承したが、金に関しても同じ事を言った。
なんで二人とも受け取らねぇんだ?
もしかして、金額が足りないとか?
契約解除料とか必要ってんじゃねぇだろうな?
あこぎな……。
「ソォータさん。あんた死にに行くつもりじゃないのか? そんな顔した奴からお金なんて受け取れないよ」
いつもにこやかな旦那が急に真面目な顔して俺にそう言って来た。
隣の女将も同じ顔をしてこちらを見詰めていた。
「へ? 何言ってんだ? 俺が死ぬつもりかだって? そんな訳無いだろ」
旦那の言葉に少しドキッとした。
勿論死にに行くつもりはねぇが、相手は魔族。
今まで運良く倒せちゃいたが、万が一ってのも十分に有り得る。
可能性は否定出来ねぇよ。
「そうかい? その顔して出て行く冒険者は、皆死地に赴く覚悟をしてるもんさ。あたしらは宿屋だ。そんな人達を何度も見たよ」
「まぁ、ソォータさんがこの街に来てからは、そんな奴等は見なくなったけどね」
真剣な顔をしていた二人が、少し表情を緩めそう言って来た。
ちっ、身バレ防止の演技には自信が有ったのによ。
どうやら、死ぬ覚悟って奴が顔に出ていたみてぇだな。
「あんたがそんな顔するてのは、相当ヤバいんだろ?」
「なっ!!」
この二人、俺の正体知ってるってのか?
力なんか見られてねぇ筈だと思うんだが。
「さっきも言ったろ。あたし達は宿屋で、今まで数多の冒険者を見て来たんだ。隠していようがどれくらいの腕かは何となく分かるさ」
「そ、そう言うもんなのか?」
「あぁ、グータラしてても毎日見てると所々で素が出る物だからね。ここだけの話、ソォータさん。あんたはここで燻ってていい人物じゃないとさえ思っていたんだよ」
「ぐっ……。チッ、バレない自信が有ったんだけどな~。まぁ、安心してくれ。俺は死ぬ気も無ぇし、老後をこの街でのんびり過ごすのが夢だしな。絶対帰って来るから待っててくれ」
宿屋の主人の目利きって侮れねぇな。
そう言えばギルドの酒場のマスターにもいつの間にかバレちまってたし、困ったもんだぜ。
「その言葉、信じましょう。では、この金貨は一時的に預かっておきます。……そして、いつか必ず取りに来てください」
「旦那……。あぁ、分かった分かった。絶対返して貰いに帰ってくるさ」
フッ、また死ねない理由が増えやがったぜ。
ありがとよ、旦那。
「あぁ、そうそう出発の都合上、何回かこの街に出没するかもしれねぇけど、それはノーカンな」
「プッ、全く締まらないねぇ。まぁそれがソォータさんの良い所かもしれないねぇ。じゃあ、頑張ってきな。あたしらはいつまでも待ってるからね」
「あぁ、行って来るぜ。じゃあな」
俺がこうして再び前を向いて歩き出すまでの間、ずっと俺に安寧の時を与えてくれたもう一つの我が家に別れを告げギルドに足を向けた。
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