2、少女と猫
狂気染みていながらどこか優雅さの漂う部屋の中で、地下特有の反響を愉しむかのように、一人の少女がヴィオラを奏でている。
漆黒の髪に、透き通るような純白の肌、そして服装はいわゆるゴシック&ロリータファッションのドレス。
そして髪の毛と同じ漆黒の右目と、それとは対照的に血のように赤い左目のオッドアイ。
身長は140センチに満たない程小柄で、そんな体には凡そ似つかわしくない大きな楽器を、少女は優雅に弾きこなしている。
ヴァイオリンよりも低く甘く、それでいてどこか切ないヴィオラの音は、地下のくぐもった反響を飲み込んで、より重厚なサウンドを作り出している。
その旋律は美しく優雅でありながら、その奥底に、背筋が凍るような重苦しい気配をはらんでいる。
旋律に入り混じる狂気は、より彼女の意識を昂揚させ、演奏はさらに力強さを増していく。
一方で、重厚で威圧感さえも感じさせる旋律を奏でる少女の美しい顔には、人間らしい表情など微塵も存在しない。
まったくの無表情を保ったままで、煉獄の炎のような激情と、極地の氷のような冷淡さが繰り返し現れる複雑な旋律を、少女は華麗に紡いでゆく。
この可憐な少女こそが、呪われし悪魔にして、この懲罰屋の主人、「フィーネ」である。
最低音であるC線の開放弦を力強く鳴らし、フィーネは演奏を終了する。
「さすがフィーネだね。見事な演奏」
小さく息を吐いて弓を下ろしたフィーネの後ろから、少年のような声が響いた。
声の主は、一匹の黒猫。
フィーネとは逆の、漆黒の左目と、血のように赤い右目を愛らしく見開いて、フィーネの方を見つめている。
人語を発するこの奇妙な猫は、フィーネの唯一の友であり、仕事のサポートをする仲間である「クロ」だ。
「クロ、お帰り。早かったね」
鈴を転がすような声で、フィーネはクロに声を掛ける。
口調は優しいが、その声にも顔にも、表情はまったく窺えない。
彼女には喜怒哀楽の感情はあっても、それは心の裡だけで、その美しく整った顔には殆ど表れないのだ。
この少女の表情を読み取ることが出来るのは、この世界のどこを探しても、唯一の友であるクロの他には居ないだろう。
「お土産は?」
やはり淡々と問いかけるフィーネに、クロは小さく溜息を吐く。
「あのさ、僕、猫なんだけど。猫にお土産を期待するかなぁ、普通」
「だって久しぶりに外に出かけてたから」
「集会に参加してきただけだよ。何しろ僕は議長だから、みんなが僕を待ってるのさ」
そう言ってクロは「えっへん」とわざとらしく声に出す。
「でも」
フィーネが無表情のまま首を傾げる。
「路地裏に集まって、野良猫同士でみんな何を話してるの?」
「折角格好つけてるんだから察してよ。そーですよ、野良猫の集会ですよ」
クロはもう一度溜息を吐く。
「それより、お客さん」
クロはそう言って後ろを振り返る。
次の瞬間、鋼鉄の扉を音もなくすり抜けて、一人の男が現れた。
この初老の男は、フィーネに仇討を依頼していた、れっきとした客人である。
逆に言えば、彼は誰かに殺されてその犯人を呪うことも成仏することも出来ずにいる、哀れな魂でもある。
だがフィーネは、自らの魂を代償にする覚悟で仇討を依頼してきた、そんな客人に頭を下げることさえしない。
それどころか、完全に依頼人の存在を無視して、先ほどまで弾いていたヴィオラの弓の、切れて垂れ下がった一本の毛を指先で弄んでいる。
「そ、それで、……本当に……、本当に仇討は成功したのですかッ!?」
依頼人は深刻な表情でフィーネに詰め寄るが、フィーネはそんな依頼人の方を見ることさえもなく、
「ちゃんと報告はするから、手入れ終わるまでちょっと待ってて」
とだけ言って、弄んでいた一本の弓毛を切り、今度はヴィオラ本体の手入れを始める。
彼女が物事にどういう優先順位をつけているかは不明だが、少なくとも依頼人の立場は自分の趣味より遥かに下なのだろう。
「え……、あ、あぁ。し、失礼しました」
一瞬不満そうな表情を見せた依頼人だったが、初めてこの懲罰屋に訪れたときからこの調子だったので、潔く諦めた。
「申し訳ありません、うちのフィーネ、いつもこんな調子で……。本当にすみません……」
「いえ、こちらこそ失礼しました。しかし、クロさんも苦労しますなぁ……」
「ええ、『クロ』だけに、『苦労』してます」
「ははっ、お上手ですな。いやいや、一本取られました」
初老の紳士と人語を話す黒猫が、頭を下げあったり冗談を言ったりしている光景は、何とも言えずシュールなものがある。
そんな光景を、やはり無表情でありながらどこか冷めたような、そんな目で見ながら、フィーネは楽器の手入れを終えて、パタン、とケースを閉じる。
「終わった。それじゃ、報告するからこっちへ来て」
そう言うとフィーネは、楽器ケースを丁寧に棚にしまう。
それから初めて依頼人の方を見て、軽く一礼した後、奥の応接間へと案内した。
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