🕕 6:00 チンピラがチンピラとケンカを始め、警官は下手な嘘を吐く

 まだほの暗い駅前のロータリーにタクシーが列をなしている。人通りはさほど多くない。どこからか電話のベルの音が聞こえる。……そう、交番の中だ。奥から慌てて飛び出してきた若い巡査が寝ぼけまなこで受話器を取り、交番の名前を口にする。相手は管轄の警察署の人間だった。


「……え? ガス漏れ? 場所は? え、あ、はい。行かなくていいんですね? はい、はい。はぁ……進路妨害ですか。それで、そっちの場所は? え、源さん? 源さんは……」

 巡査が何気なく落とした視線の先に一枚のメモが置かれていた。デスクの上からそれを拾い上げる。

「『もう向かってる』だそうです」

 電話の向こうで大きなため息が聞こえた。続いて「源川みながわさんは、なんでもう知ってるんだよ?」という呆れとも感嘆とも取れる声が漏れる。

「さぁ……」

 巡査がガラス戸の向こうに目をやった。朝日を待つ街の風景は、不気味なほどひっそりとしていた。



  *   *   *   *   *



 ここにも眠たい目をこすっている男がいる。加賀谷かがや幸四郎こうしろうといういかにもチンピラ風のその若者は、早朝の東京の街を火ばさみとゴミ袋を持って歩いていた。


 先輩に「たまにはいいことをしろ」と言われ、そういうものかとさっそく駅前のゴミ拾いでもしようと早起きをするあたりは持って生まれた純粋さだ。なぜ「いいこと」がゴミ拾いという結論になるのか、なぜゴミ拾いをするのに早起きをする必要があるのかと言えば、幸四郎の中で「いいこと=ゴミ拾い=早朝」という妙なイメージがあるからに過ぎなかった。それにしても五時起きは早すぎる。


 キィーッ——。


 まだ静かな繁華街の一角で、場違いな音が鳴り響いた。平和な街に異常を知らせる音だ。叫び声が続く。幸四郎が音のしたほうに目をやると、ちょうど昨日くだんの先輩と飲んだスペイン・バルのあたりでタクシーが急発進し、開いたドアで人をなぎ倒したところだった。脇には救急車も停まっていた。


「なんだ、ありゃ?」

 ただならぬ雰囲気に幸四郎はそちらへ足を向ける。彼はケンカや物騒な雰囲気に怖気づくということを知らない。救急車が慌てて発進し、スピーカーで何かを叫んだ。そうこうしているうちに、幸四郎より若いと思われる男がタクシーのボンネットに乗り、飛び跳ね始めた。タクシーが海原を漂うボートのように揺れる。もう一人が運転手を引きずり降ろし、その腹のあたりを蹴りつけていた。

「おい、おい、おい」

 幸四郎は火ばさみとゴミ袋を投げ出して、駆け寄った。「お前ら、何やってんだよ!」


 振り向いたのはタクシーになぎ倒された三人だった。

「なんだ、てめ……」

 ガンを飛ばし終わるのも待たずに、一番手前の男を飛び蹴りで吹っ飛ばす。そのままの流れで二人目の右頬を殴りつけた。しかし、その隙に三人目の男に右膝の裏を踏みつけられる。思わず膝がしらを着いたところを羽交い絞めにされた。ボンネットの男とタクシーの運転手を蹴り飛ばしていた男がこちらに歩み寄ってくる。

「くそっ」

 必死に振りほどこうとするが、思いのほか力が強くびくともしなかった。膝を折られているので、蹴りも使えない。ボンネット男がにやりと笑うと、右手を大きく振りかぶった。全身を固くする。


「腕が落ちたんじゃないのか?」

 脇から聞こえた声にみなの意識が逸れる。次の瞬間、黒い棒のようなものが風を切ってボンネット男の額を薙ぎ払う。ほとんど呻き声を上げることもなく、男は背中から倒れた。

「お、おい、おまわりがそんな暴力……」

 タクシーの運転手に散々蹴りを食らわせていた男が言いかけたが、その肩口に向かってなんの躊躇もなく警棒が振り下ろされる。こちらの男はみっともない悲鳴を上げた。

 幸四郎が自分の体に自由が戻ったことに気づいた時には、羽交い絞め男はすでに少し先に停まっていた黒い車に向かって走り出していた。ほかの男たちはみな一様に悶え苦しんでいて、反撃をしようという者はいない。


「源さん! 久しぶりっすね!」と幸四郎は制服の警官に抱きつかんばかりに喜びの声を上げた。

「チンピラに再会を喜ばれるとは、俺も甘いな」

「そこが源さんのいいとこじゃないっすか」と当のチンピラがフォローを入れる。「でも、いいんっすか? 問題なりません? 警察官が暴力って」

「緊急車両の通行を妨げるやつらよりマシだろ。それに、どうせ近いうちに辞めるんだ」

「辞めるって、警官を?」

「あぁ、もうじき定年だ」


 源川が腹を押さえるタクシーの運転手に歩み寄る。

「運転手さん、大丈夫か?」

「え、えぇ。大したことないです」

 運転手はよろよろと立ち上がり、「いててて……」と腹と一緒に腰にも手をやった。年の頃は源川と同じか、やや上だろう。

「もうじき応援が来ますので、状況を伺えますか?」

「……」

「なにか?」

「その、緊急車両の妨害してたやつらをタクシーのドアで殴ったら、罪になるんでしょうか?」

 さすがの源川も目を丸くした。

「また、ずいぶんと無茶を」

「その」と運転手が恥ずかしそうに頭を掻く。「居ても立ってもいられなくなって……ヒーローを気取ってしまいました」

 その表情はどこか晴れ晴れとさえしていた。

「は!」と幸四郎が愉快そうに笑った。「おじさん、見かけによらずやるんすね!」

 源川も思わず笑みをこぼす。

「大丈夫、警棒で殴りつけるよりは罪は軽いはずです」

「はぁ」


「お前は寝とけ!」

 起き上がろうとした男を幸四郎が蹴りつける。「うぅっ……」という呻き声を上げて再び路上に伸びた。


「まぁ、厳重注意というところでしょう。いま私がします」と源川が運転手に向かって言った。

「はい?」

「一般市民の方は警察に連絡をするだけで十分なんです。危険な状況に立ち向かうのは我々の役目ですから」

「それと勇敢なチンピラっすね」と幸四郎が横やりを挟む。

 サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。示し合わせたように、三人が道路の先に目をやった。


「ヒーローなんていないから、警察が必要なんです」

 源川がぽつりと言った。



  *   *   *   *   *



「ガス漏れ?」

 幸四郎が驚きの声を上げる。ほうじ茶が熱かったらしく、源川が顔を歪めた。二人がいるのはJRの駅前にある交番の中だった。狭いスペースは茶葉の香りで満ちている。朝一で電話を受けた巡査は、源川が戻ってきたのと入れ替わりで街頭監視に出ていた。通勤通学の時間帯にあわせて行っている日課だった。


「そうだ。お前も見ただろう? ガス会社の緊急車両」

「え、あれ、救急車じゃなかったんですか?」

 勘違いをしていたらしい幸四郎に、源川はめんどくさいなと思いながらも緊急車両とは何たるかを説明をしてやる。幸四郎は「へぇ、なるほど」と声を上げている。やっとガス漏れの件と自分が先ほど関わった一件が繋がったらしかった。

「この先にでっかい病院があるだろう? あのあたりの飲食店から漏れてたらしい」

「もう大丈夫なんすか?」

「あぁ。さっきのガス会社が駆けつけて対処したから、もう引火や爆発の心配はないってよ」

「よかったっすね。てか、さっきのタクシーの運ちゃん、お手柄じゃないっすか!」

「まぁ、無茶ではあったけどな。間違いなく人の命を救ったよ」



 結局、緊急車両の通行を妨害した若者五人のうち一人は仲間を置いて車で逃げたが、残りの四人は所轄の警察署で事情聴取を受けることになった。逃げた一人についても身元が判明するのは時間の問題だった。


 源川が「ちょっとばかし乱暴しちまったけど、まぁ、頼むよ」と駆けつけた後輩の巡査部長の肩に手を置くと、その仲間に入れてもらおうと幸四郎がすかさず「お願いします!」と手を合わせた。そのわきで遠慮がちに頭を下げるタクシーの運転手にも目をやり、巡査部長は源川に視線を戻した。

「三人まとめて、な。上には俺からも連絡しとくから」

「まったく」と笑みをこぼす。「断れるわけないじゃないですか、源さんのお願いを」



「ちょうど昨日、源さんのことを思い出してたんっすよ」と幸四郎が唐突に言う。

「なんだよ、それ。気持ち悪いな」

「いや、昨日ね、栄一さんと久しぶりに飲んで。覚えてます? 井口いぐち栄一えいいち

「……あぁ、懐かしい名前だな」


 源川の脳裏に人相がよいとは言えない細面の顔が浮かぶ。栄一も幸四郎も、昔ヤンチャをしていた時には散々灸を据えてきた。そんな間柄でもいまこうやって源川が慕われているのは、相手をただのチンピラだからと腕力や権力でねじ伏せようとせず、一人の大人として向き合ってきた源川の信念と根気の賜物と言えた。


「もう随分顔を見ていないが、元気にやってるのか?」

「なんか、いまの工場やめて料理人になるらしいっすよ。自分の店を開くって」

「ほう、たいしたもんだな」

 そう言う源川の表情はどこか嬉しそうだった。


「ただいま戻りましたー!」

 巡査の彼が勢いよくドアを引いた。

「おかえりなさーい」と幸四郎が付き合ってる彼女みたいに声を返す。

「異常はなかったか?」

「はい、異常なしです。ガス漏れの件もいま開いてる店には一通り伝えてきました。いまの時間やってるのは、ファーストフードと喫茶店くらいしかなかったですけど」

 出がけに源川から「ついでに近所の開いてる飲食店にガス漏れの一件、注意喚起して来い」と言いつけられていたのだ。

「そうか。ご苦労様」

 そう言うと、源川は席を立った。「じゃあ次は俺が立ち番やるか。お前はまだいるのか?」

「これ飲んだら帰ります」と幸四郎は湯飲みを持ち上げた。「でも、また近いうちに栄一さんと来ますね」

 その言葉に源川が笑った。

「俺はお前らの先生じゃないし、ここは学校じゃねぇんだ」

「ま、そうっすね。俺にとっては学校みたいなもんだけど」

「栄一に言っとけ。店を持ったら、こっちから行ってやるって」

 源川はそう言うと、交番の外へと出ていった。



「幸四郎さん、源さんに相当迷惑かけたらしいじゃないっすか? 源さん、いまでも時々幸四郎さんの話してますよ。『あいつには今世じゃ返しきれないくらい世話を焼いた』って」

 初対面の巡査の彼がにやけ顔で言う。

「まぁ、否定はできないかな」と答える幸四郎もどこか嬉しそうだ。

「『そのくせ、ちっとも顔を出さねぇ』ってぼやいてます」

「なんだ、やっぱり来てほしいんじゃんか!」


 その時、一人のサラリーマン風の若い男性が交番のガラス戸を開けた。

「すみません、昨日終電逃してネットカフェに泊ったんですけど、どうも財布を盗まれたみたいで……」

 幸四郎が茶を飲み干し、席を譲る。

「どうぞ、俺もう済んだんで」

「あ、すみません」

「じゃあ、また来るから」と幸四郎が言うと、巡査が「えぇ、ぜひ」と微笑んだ。


 ガラス戸を開けようとして、ふと脇に置かれた火ばさみとゴミ袋に目が留まった。そうか、ゴミ拾いに来たんだっけ……。少し考えたあとに、あえてそのまま置いていくことにした。「会いに来た」ではなく「取りに来た」であれば、源さんも下手な嘘を言わずに済むだろう。

「昨日スペイン・バルで三時くらいまで飲んでて、あ、三時なんで昨日っていうか今日ですけど。それからネットカフェに行って……」と財布がなくなった経緯を話すサラリーマンを残し、交番を出る。


 立ち番をすると言っていた源川の姿はなかった。きっとパトロールにでも出かけたのだろう。結局、ゴミ拾いはできなかったけど、幸四郎はそれ以上に「いいことをした」ような気がしていた。違うか。この満足感は、「いいことがあった」満足感だ。


 幸四郎は一つ大きく伸びをすると、すっかり本来の喧騒を取り戻した朝の東京の街に意気揚々と一歩を踏み出した。


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