🕕 18:00 一回の善行は、十回の悪行をチャラにする

「それ、何ていう理論っすか?」

「名前なんか付いてへん。てか、理論でもあらへん」

「気持ちの問題っすか」

「せや。気持ちの問題や」



 これは加賀谷かがや幸四郎こうしろう井口いぐち栄一えいいちの会話だが、これでは何の話かわからないので時計の針を三十分ほど戻すことにする。針がないデジタル式の場合は数字を戻す。時刻は午後五時半、場所は東京の片隅のスペイン・バルだ。ちなみにお気づきかもしれないが、二人ともすでにこの物語に登場している。これより先に新しい登場人物はいない。



  *   *   *   *   *



「ここ、よくないっすか? この外の席」

 幸四郎は通りかかったスペイン・バルのテラス席を指さして言った。テラス席と言っても、歩道に向かって突き出した申し訳程度のシェードの下に、小さな丸テーブルと折りたたみの椅子が向かい合わせに二つ置いてあるだけだった。

「野郎二人でテラス席ってどうなん?」

 栄一が青いキャップのつばに手をやり、眉をひそめる。

「いいじゃないですか、スペインっぽくて。昼間っからサングラス掛けた男がコロナとか飲んでそうじゃないっすか? スペインって。行ったことないけど」

「コロナはメキシコやけどな」


 結局、その十分後には幸四郎と栄一はその席でコロナを飲んでいた。傾きかけた日差しはビルに遮られていたから、サングラスは必要なさそうだった。

「で、うまいことやってるんか?」と栄一が尋ねる。

「警察に捕まらずにここでこうやってビール飲んでるのが、うまくやってる証拠っすよ」

「まぁ、せやな」

「みんないい人だし、チームワーク抜群って感じっす。栄一さんが紹介してくれたおかげっすよ」

「腕のほうは上がったんか?」

「そりゃもう、たいていの金庫なら楽勝っすよ」と幸四郎は言ったが、すぐに「と言いたいところっすけど、俺の仕事は運転手なんで実際に盗んだことはないっす」と白状した。

「それも立派な銀行強盗の仕事やろ? 盗んだ金抱えて電車乗るわけにはいかへんからな」

「そうなんっすよ!」と幸四郎は一際嬉しそうな声を上げた。「俺はみんなの翼なんっすよ!」

「それは美化しすぎとちゃうか?」

「物は言いようってやつっす」


 数年前まで幸四郎は定職に就くことなく、バイトの合間にケンカと窃盗を繰り返しては、歯医者に通うみたいに警察の世話になっていた。歯医者に通えば歯が治るが、警察に通っても幸四郎の喧嘩っ早さと手癖の悪さは治らないようだった。見かねた栄一はおせっかいをやき、知り合いの男に幸四郎の面倒を頼んだ。その男の生業なりわいが銀行強盗であることを考えれば定職とは言い難かったが、喧嘩っ早い性格は少しは穏やかになるだろうし、手癖の悪さは仕事に活かせそうではあった。


「源さん、元気っすかね?」

「えらい懐かしいな」

 少し昔を思い出したのか、幸四郎は散々迷惑をかけた交番の警官の名前を出した。本名を源川みながわというその警官は年の頃はすでに六十近く、過去には機動隊に配属されたこともあったが、その一時期を除いては、自ら志願しキャリアのほとんどを交番勤務で過ごしていた。源川の存在が目の上のたんこぶであるはずのチンピラたちからも「源さん」と呼ばれる不思議な魅力を持った人物だった。


「俺もケンカやめてからめっきり会ってないなー。行ってみます? 交番」

「警官にわざわざ会いに行く銀行強盗がどこにおるんや」

「確かにそうっすね」と幸四郎は笑う。「そういや、栄一さんは最近何してるんっすか?」

「俺か? 俺はな、勉強」

「勉強? 何のっすか? あ、競馬とか? 明日そこの競馬場であるらしいっすね、何かを記念したレース」

「ちゃうわ。調理師免許取んねん」

「ちょ、調理師免許? って、料理人になるってことっすか?」

「料理人言うほどやないけどな、自分の店出そう思ってんねん」

 

 それから約十分間、栄一は幸四郎の質問攻めを受け続けることになる。幸四郎が5W1Hの概念を知っているかは定かではないが、「いつ、どこで、誰と、なぜ、どうやって」をそれこそ英語の授業のように訊き続けた。「あなたはいつお店を出すのですか?」「どこに出すのですか?」「誰と出すのですか?」……。


 特に「なぜ」の部分は納得がいかないらしく、三回繰り返した。さすがに三回目には栄一もうんざりして、「たまには、ええことせなあかんやん」と普段思っていても絶対に他人に言わないセリフを口にした。柄でもない発言に、穴があったら入りたいとは言わないまでも、キャップを深くかぶり直したい思いには駆られた。


「栄一さんにとって、いいことっていうのがお店を開くことなんっすか? 普通、ゴミ拾いとかじゃないんすか?」

「どんな固定概念やねん」と栄一が笑う。「例えばの話や。何でもええねん。道に迷ってる人に声をかけるんでも、雨宿りしてる人に傘を貸すんでも。十回悪いことしたら、一回ええことすんのや。そしたらチャラになる」

「誰がチャラにしてくれるんっすか?」

「自分や。自分の気持ちの問題や」

 幸四郎は「ふーん」とわかったような、わからないような顔で栄一のキャップに書かれた「Peace is Power」の文字を見つめていた。


 と、ここで時刻はやっと十八時を迎える。


「それ、何ていう理論っすか?」

「名前なんか付いてへん。てか、理論でもあらへん」

「気持ちの問題っすか」

「せや。気持ちの問題や」

「栄一さんは、最近何かいいことしました?」

「最近? ……せやな、カフェの店員の姉ちゃんに生きるうえで大切なことを教えたったわ」

「なんすか、それ?」

 笑いながら言った幸四郎の視線がふと通りの向こう側に向けられ、栄一も釣られてその後を追う。タクシーが通り過ぎたその向こうに、ガードレールにもたれ掛かる若い男の姿があった。おそらくは大学生だろうか。


「あれ、どう思います?」

「どうって、なにがや?」

「困ってると思います?」

 そう言われると途方に暮れているように見えなくもない。

「『困ってるんか?』いうて声かけるのもええことなんやないか?」

「……なるほど」

 そう言うと幸四郎はやおら立ち上がり、左右を確認してひょいとこちら側のガードレールを跨いだ。小走りに車道を渡りながら、大声で話しかける。背後から急に声をかけられた青年は驚いたように体をびくつかせたが、すぐに目の前の店を指さしながら幸四郎に何かを話し始めた。


 栄一が青年の指の先を見ると、閉められたシャッターの上に「玩具・花火問屋 若林商店」の看板が目に入る。JRの駅から程近い場所にもまだこんな昔ながらの店があるんだな、と栄一は感心する。ふと視線を落とすと、つい先ほどまで青年と言葉を交わしていた幸四郎の姿がなかった。しばらく待ったが、幸四郎は戻らない。そわそわした様子の青年の後ろ姿を見るに、彼もまた幸四郎が現れるのを待っているようだった。栄一はコロナの瓶が空なのを確かめると店員を呼び、幸四郎の分も含めて二本追加した。


 それからさらに数分が経ち、さすがに青年に状況を聞きに席を立とうかと栄一が思ったところに、幸四郎がどこからともなく姿を見せた。手にした巨大な万華鏡のようなものを青年に渡すと何事か申し添え、颯爽とこちらへ戻ってきた。その後姿に向かって、青年が深々とお辞儀をしていた。


「何してたん?」

 栄一が届いたばかりのコロナの瓶を渡しながら尋ねる。幸四郎は席に着くと、瓶の口に引っかかったライムを親指で押し込み、半分ほどを一気に飲み干した。

「あー、一仕事終えたあとのビールはうまい! いや、あのっすね」と幸四郎は興奮気味に話し始める。「さっきの彼が『どうしても大きな打ち上げ花火が欲しいんだけど、このへんで売ってそうなお店があそこしかない』って言うんすよ」

 「あそこ」のところで、幸四郎はコロナを若林商店に向かってかざした。さっき幸四郎が青年に渡していたのは、巨大な万華鏡ではなく打ち上げ花火だったらしかった。

「通販とかじゃ買われへんのか? Amazonとかで」

「どうしても今日手に入れなきゃならない理由があったんすよ」

「せやけど、閉まってんな。若林商店」

「そうなんすよ。営業時間十七時まで。なんで、俺が一肌脱いだわけっす」

「盗んだんか?」

「まー、悪い言い方をするとそうっす。彼には『店主に事情を話して、特別に売ってもらった』って言いましたけどね」

「ええ言い方したらどないなるん?」

「キューピットっす」

「……あかん、迷子やわ」

「あのですね、これには裏話がありまして……。あ、店員さん、アヒージョ二つ!」

「え、二つも頼むんか?」

「え、ダメっすか? アヒージョ好きなんすよ」

「別にええけど」

「でね、裏話の話っすけど……」


 幸四郎は得意げに少年から聞いた話を栄一にし始める。栄一は大いにその話に興味を抱くか、自分も東京の片隅でらせん状につながるこの物語の登場人物であるとは夢にも思っていない。



 いずれにしても、栄一と幸四郎は上機嫌で今しばらくこの店に居座り、さらに数本のコロナの瓶を空けることになる。


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