🕒 15:00 親の愛情は、間接的に子に伝わる

「この電車は京浜東北線快速、赤羽行きです。次は……」


 月曜の昼下がりを神奈川から埼玉まで南北に走る電車の車内には、朝の通勤ラッシュが嘘のようなのんびりとした時間が流れていた。


 小口おぐち恵三けいぞうはスマートフォンで最近頻繁にアクセスしているあるサイトを見ていた。ユーザーが投稿するページが「記事」と呼ばれ、購入した商品のレビューやおすすめのレストランなどが並ぶ中で、彼女は毎日小説を更新し続けていた。白血病を患った少女が主人公の恋愛小説だった。「Yoko_Oh_No」という敬意なのか、自虐なのか、ただ単にふざけているのか判然としないアカウント名の彼女が書く小説が恵三は妙に気になり、読まずにはいられなかった。


 駅を出ると、スマホの地図アプリを見ながら歩き出した。道順はさほど難しくない。五分も歩けば、目的の店のはずだった。途中、道端で立ち話をしていたカップルの声が耳に入ってくる。

「……まだ信じられないよ」

「信じるか信じないかは関係ないんだって。いるの、お腹の中に子どもが!」


 恵三は思わず振り向く。年の差婚というほどではないが、女性のほうが少し年上には見えた。本人たちにすれば人生が変わるほどの出来事に違いないが、そんな昼ドラみたいな会話さえ、どこか睦ましく思えるのどかな空気が辺りを満たしていた。


「ここだ」

 食べログの写真と目の前の蕎麦屋を見比べる。腕時計は十五時ちょうどを指していた。少し緊張しながら暖簾をくぐるが、厨房の奥から水が流れる音がするほかは人の気配はない。どうしたものかと思っていると、脇にあった二階へ続く階段から店員が降りてきた。お互いに少し驚く間があってから、エプロン姿のその人が言った。

「小野さんのお連れ様?」

 恵三の返事を待たずに、「二階の一番奥ね!」という掛け声にも似たセリフを残して厨房へと消えていく。


 二階へ上がると、「奥の席」を探すまでもなく、そこには客が一人しかいなかった。恵三が近寄り「遅くなりました!」と声をかけると、「遅くないだろ。時間通りじゃないか、馬鹿」という何に怒られたのかよくわからない挨拶が返ってきた。そう、これは幾分手荒い挨拶なのだ。そして恵三はそれが嫌いではなかった。


 ビールで乾杯をしたが、小野はジョッキに半分ほど残したまま早々に焼酎の水割りに移行した。夕暮れの気配すらない明るい時間に一升瓶を目にすると、恵三はなぜかいつもTPOという言葉を思い出した。


「懐かしいですね。ちょっと白髪増えました?」

「染めるのをやめたんだ。そのうち真っ白になる」

「渋くていいですね」

「それより、営業から本部に異動した途端ちっとも連絡よこさねえんだから、薄情なもんだぜ」


 小野は三年前、恵三が営業所でルートセールスをしていた時の客だった。一部上場企業の子会社で専務を務める小野とはたまに顔を合わせる程度だったか、どういうわけか小野は恵三のことを気にかけ、たまにこうして二人で飲みに行くことがあった。しかしそれも先の小野の言葉のとおり、業務上会う機会がなくなってからはすっかりご無沙汰だった。

「ちょっと色々ありまして……」

「知ってるよ。だから呼んだんだ。でも、元気そうじゃねえか」

「あ、はい。別に仕事をしていなければ普通です」

「仕事してないのに、なんでスーツなんだよ?」

 小野が恵三の格好を指して言う。

「あ、いや、一応お客さんですし……」

「元、客な。お前さんは真面目すぎるんじゃねぇか?」


 会社を休み始めて二週間が経とうとしていた。適応障害。いまの時代、情報と数多の感情が目に見えないスピードで目に見えないネットの波間を飛び交うこの世界で、この日本で、この東京で、メンタルに支障をきたすことは珍しくない。むしろ、恵三は精神の正常な反応とさえ思っていた。だが、自分が当事者になると訳が違う。結局、何事も体験するまではすべて「わかったつもり」でしかないのだ。


「いま多いんだよな……お前みたいに休んじまうやつ」

 小野のその言葉に、次に続くであろう批難を想像して恵三は身を固くした。


『最近の若いもんは弱い』『俺たちの時はもっと過酷だった』


 公の場でそのような意見を耳にすることは減ったが、いまだに小野のような「古き良き時代」を知っている世代の中には、飲み屋の席でそう口にする者も珍しくなかった。だが、小野が次に発した言葉はまったく予想外のものだった。


「うちの娘も休学してんだよ、いま」

「え? そうなんですか」

 小野が焼酎のグラスを片手に頷く。

「うちのは体のほうの病気だけどな。入院してる」

「重い病気なんですか?」

「まぁ、軽くはないかな」

 言葉少なに語る小野に、恵三はどこまで訊いていいのか計りかねた。

「子どもが苦しんでるときに親ができることなんて、何にもねえんだよな」

 似つかわしくない感傷的なセリフを小野は口にした。昼の三時過ぎから一升瓶を豪快に空ける小野も、娘のことで悩むのは世間の親と一緒らしい。


「でもよ」と小野が何かを否定するかのように続ける。「悩まない人間よりは、悩む人間のほうが俺は好きだぜ。確固たる自信があるやつにろくな人間はいねえ。だってそうだろ? 自分が絶対正しいと思ってるやつは、誰かを傷つけても『私は間違ってない』って思うんだ。自分が絶対正しいと思ってるから謝らない。そんなの絶対正しくねえよ」

 心情の吐露とも言える小野の熱い言葉を聞いて、恵三は「やっぱりこの人が好きだ」と感じていた。酒が入っているせいか、目頭が少しだけ熱くなる。


「現実の人間関係でならまだ対処の仕様がありますけど、最近はSNSでも、というかSNSのほうが、頻繁にそういうことが起こりますからね。会ったこともない人に対して、批判や批難ならまだしも誹謗中傷もスマホの画面に数回触るだけでできちゃう。便利だけど、恐ろしい世の中です」

「それだよ」と小野は恵三の鼻先に無遠慮に人差し指を突き立てた。「SNSだって現実の一部だろ? 所詮、一つのツールでしかない。なのに、どうして現実と分けて考えるんだ? リア充とか言うけど、SNSだってリアルの一部だ」

「結局、根底にあるのは『想像力の欠如』じゃないかと僕は思うんですよ」と恵三は言った。すでにかなり酔いが回っている。

「一つのハンドルネームの裏にもれなく一人の生身の人間がいるということを想像できない。一人の人間が背負ってる生活を想像できない。だから、簡単に心ない言葉を投げつけられる。想像力が足りないんですよ」

「現実なんて、その多くが想像で成り立ってるのにな」と小野が後を受けた。「ちょっと便所行ってくるわ」


 噛み合っているのかどうかもよくわからない会話にひと時の休息が訪れた。恵三は座布団の脇のスマホを取り上げるとGoogle Chromeのアイコンを触る。電車の中で見ていた彼女の小説が現れた。酔った勢いと言われれば、そうなのだろう。恵三は💬コメントのマークを押し、文字を打ち込む。


『悩まない人より、悩む人のほうが好きです。現実はその多くを想像に頼っているから』



 しこたま食って飲んだあとに、小野が「まだ飲むか? 歌うか? 決めろよ、官房長官」と言ってきた。官房長官というのは、「小口恵三」という名前が「小渕恵三」と読みで一文字違いのところから来ているのだが、実際のところ、恵三の名前が彼が生まれたその瞬間に小渕官房長官が「平成」の書を国民に示したことに由来するのを小野は知らない。

「どうせなら総理大臣って言ってくださいよ」とお決まりの返答をしながら恵三は笑う。「今日は歌いましょう!」

「よっしゃ、今日はビートルズ縛りだ!」

「いつもじゃないですか」



 階下に降りると、夫婦と思われる二人が厨房の中で何やら言い合いをしていた。

「お前はだいたいがおっちょこちょいなんだよ。そんなんしてたら、そのうち大事故起こすぞ! ガス漏れとかよ」

「そんなことしないわよ。あんたこそ、ろくに買い物もできないじゃない!」

 小野が見かねて、「ケンカするほど仲がいいとこ申し訳ないけどよ、お会計!」と声をかける。

「あ、はーい」


 小野が会計をするのを恵三は店の外で待った。時刻は十八時になろうとしていた。初秋の日差しはすでにかげり始めている。

 恵三はスマホを取り出す。すっかり癖になっていた。なかば何の変化もないことを確認するために見たつもりだったが、予想に反して🔔通知のマークに①が表示されている。「Yoko_Oh_No」から返信が来ていた。


『コメントありがとうございます。後半はジョン・レノンの言葉ですよね? 好きな言葉です。少し救われた気がします。この言葉を私に届けてくれてありがとう』


 恵三は微笑んだ。「Yoko_Oh_No」は小野とジョン・レノンの言葉に救われたのだ。うん? 「ヨーコ・オーノー……?」

 そこで、小野が店から出てきた。

「ごちそうさまでした」

「三十そこそこの青二才に払わせるわけにはいかねえよ。それより、行くぞ。歌うぞ!」

 そう言って歩き出した小野は、上機嫌でビートルズの「In My Life」を口ずさんだ。


 ——僕は自分が交わった人々や出来事に対する愛情を決して失わない。


「そう言えば」と恵三は小野の横に並ぶ。「小野さんの娘さんって名前は何て言うんですか?」

「うん? 陽子だ。太陽の『陽』に子どもの『子』」

「小野陽子?」

「まぁ、そう言うことだ」

 そう言うと、恵三が何かを言うよりも早く、ぬっと指を二本立てて恵三の前に突き出した。

「『Peace is Power』だ。結婚したら荻野目陽子になるかもしれないけどな」



 戻りつつある都会の喧騒を歩く二人の後ろ姿は、親子のようにも見えた。


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