🕛 12:00 PMが始まり、カフェの店員は大切なことを学ぶ
「アイス三つに、サーモン二つ、カルボ、食後にティラミス三つ」
アイスはアイスコーヒーのこと、サーモンは鮭といくらのクリームソースパスタのこと、カルボはカルボナーラのこと、ティラミスはティラミスだ。
「オーダーを取ることと伝えることの間に、あくびは必須なのかな?」と初月の二つ上の先輩である真純は出来上がったばかりのカルボナーラをキッチンの中からカウンターに置くと言った。苦言を呈するというには語気が柔らかく、どちらかと言えば、からかっている雰囲気がある。
「昨日、あんまり寝てなくて」
「昨日も同じこと言ってたわよ」
「一昨日もあんまり眠れなかったんですね、覚えてないけど」
初月はカウンターの上にぶら下がった三番テーブルの伝票を取ると、カルボナーラの皿を掴み、ホールへと戻った。
「あ、それは三番ね!」
いまオーダーを言ったばかりの料理がこんなに早く出来上がらないことくらいは、初月にもわかった。
大学二年生の初月は、毎日繰り返される日常に倦んでいた。なんなら、その先に待っているであろう人生とか、未来とか呼べそうなものにもさほど期待はしていなかった。私はいつからこんなにつまらない人間になってしまったんだろうと考えたことは一度や二度ではなかったが、答えが出たことはなかった。
「カルボナーラお待たせしましたー。ご注文の品、以上でお揃いですか?」
通り一遍のセリフを息継ぎなしで言い終えると、伝票をテーブルの上に置く。早々に踵を
「はい?」
「アイスコーヒーが来てへん」
「え……」
置いた伝票を手に取る。「アイスコーヒー」と印字された横に「✓」のマークが付いている。「提供済み」の印だ。初月は持ってきた記憶がなかったので、ほかのスタッフが提供したのだろう。
「もう出してるはずですけど」
初月は控えめにそう主張した。スマートフォンを見ていた客の男が、「あ?」という怒気を含んだ声と、声と同じ程度に不機嫌そうに歪められた眼差しを初月に向けた。青いキャップをかぶり、顎ひげを生やした細身の男はあまり人相が良いとも、愛嬌があるとも思えなかった。キャップに書かれた「Peace is Power」という言葉が男の生き様と一致していることを初月は願った。
「出してるはず言うても、来てへんもんは来てへん」
「いや、でも」
初月は伝票を男の鼻先に突き出し、食い下がった。「ここにチェックが付いてますよね? これは提供済みの印なんです。だから出してるはずです」
男は何かに落胆したように首をうなだれると、はぁーと大きなため息を吐いた。
「あのな、姉ちゃん」
そう言った男の声は思いのほか穏やかだった。「印は付いてるかもしれへんけど、コーヒーは来てへんのや。コーヒーのグラスをここに置いた瞬間に、その伝票に自動でチェックが付くなら間違いあらへんかもしれへんけど、そうやないやろ? そうやないんやったら、そのチェックが間違いの可能性もあるやろ」
「いや、でも」
「それともなにか? 姉ちゃんは俺がいかにもチンピラ風で、
「そういうわけじゃ……」
見かけがチンピラ風だと思ったのは事実だが、男が話してる方言が「似非関西弁」なのかは、東京生まれ東京育ちの初月にはわからなかった。
「決めつけんと、とりあえず確認しい」
そう言うと、男はフォークを手に取り、カルボナーラを巻き取り始めた。
初月はカウンターに戻ると盛大なため息を吐いた。
「料理を出した後のため息も必須なのかな?」
真純はアイスティーとオレンジジュースをカウンターに置きながら、皮肉っぽく尋ねる。
「これはオプションです」
初月は短冊のようにぶら下がった伝票を見比べる。ほかにアイスコーヒーを注文している客はいない。
「真純さん、三番のアイスコーヒーって……」
うん? いない?
初月はそこであることを思い出した。少し前にアイスコーヒーをどこかのテーブルに持って行ったのだ。あれは確か……。
「これ、五番ね」
真純がカウンターの上のアイスティーとオレンジジュースを顎で指しながら言う。初月は五番テーブルを勢いよく振り返った。窓際のその席にはカップルが座っていて、男のほうがアイスコーヒーを飲んでいる。五番の伝票を確認する。「アイスティー」「オレンジジュース」の文字がくっきりと印字されていた。初月は自分の犯したミスに思い当たった。三番のテーブルに出すべきアイスコーヒーを、三番の伝票に印を付けた後に、五番に出したのだ。
「違うなら言ってよー」
心の声が思わず漏れた。
* * * * *
「アイスコーヒーお待たせしましたー」
緊張感のないセリフとともにテーブルに置かれたアイスコーヒーに一瞬時間が止まったが、若い女性の店員は気にすることなくそそくさと戻っていった。
「あれ、頼んだのアイスコーヒーだっけ?」
「いや、アイスティー」
「え、じゃあ言いなよ?」
「まぁ、いいよ。アイスコーヒーでも」
次美は彼に聞こえないくらいの小さなため息を吐いた。
彼はおおらかな人間だった。おおらかすぎると次美は考えていた。細かいことは気に留めず、与えられたものを黙って受け入れるタイプ。ちょうどいま、注文していないアイスコーヒーを飲んでいることは彼の人柄を端的に表していた。
もっとも、ほかの人のもとに届けられるべきアイスコーヒーを飲んでしまうことでどのような影響が出るかを考える余地はあったが、次美はそれについては考えないことにした。いま彼女が置かれている状況においては、考える余地はあっても余裕はない。
「それより、話って何?」
グラスを左手で持ち、ストローで氷をつつきながら彼が言った。次美は深呼吸をする。
「いい? 驚かないでね? いや、驚くと思うんだけど、気を確かに持って」
「その前振り必要?」と彼が笑う。「ハードル上がりすぎて、宝くじで三億円当たったくらいのインパクトがないと、もはや驚かないよ?」
「宝くじは当たってないけど、人生が変わるという意味においては同じかもしれない」
「人生が変わるって大げさな……子どもができたわけでもあるまいし」
彼は相変わらずストローで氷をつついていたが、やがて次美が反応を示さないことに気づき、顔を上げた。次美は無表情に彼の顔を見つめていた。
「……え?」
頼んでもいないアイスコーヒーが運ばれてきたときの比ではないくらい長きに渡って彼の周囲の時の流れが止まるのは、このすぐ後だ。
* * * * *
「本当に申し訳ありませんでした」
初月がアイスコーヒーをテーブルの上に置き、深々と頭を下げた瞬間に、ガラスの割れるけたたましい音が店内に響き渡った。見ると、窓際のカップルのところで真純がアイスティーとオレンジジュースの載ったトレーを床に落としていた。どうやらカップルの男性のほうが真純とぶつかったらしい。男性がしきりに謝っている。真純は初月と目が合うと、「大丈夫だから」と目配せを送ってきた。
「やっぱり、まだ来てへんかったやろ?」と青いキャップの男が諭すように言った。初月は男のほうに向き直る。
「……はい。すみませんでした」
「あのな、姉ちゃん。なんでも決めつけへんことが大切なんや。決めつけた途端に、ほかのことが見えへんようになる。そうやって人間は間違うんや」
「はぁ」
「姉ちゃんは、いま自分が何を間違ったかわかるか?」
「何をって、アイスコーヒーを違うテーブルに……」
「ちゃう」
「……アイスコーヒーを出してないのに、出したって言ったこと?」
「せや。それや。確かめもせんと、『アイスコーヒーは出てない』っちゅう可能性を潰してもうた。もったいないやろ? わかったら、次から気いつけや」
「はい……ありがとうございます」
* * * * *
洗い終わった皿を拭く初月の心は、不思議と晴れ晴れとしていた。つい先刻起こったことを掻い摘んで言えば、「自分がミスをし、それが原因で客に怒られた」ということにほかならなかったが、怒られた気はしなかった。いや、実際、キャップの男は怒っていなかった。初月は、何か大切なことを学んだ気さえしていた。
「はぁー」
戻ってきた真純がため息を吐いた。
「大丈夫でした?」
「うん、大丈夫。飲み物を持っていったら、男の人のほうが突然立ち上がってぶつかったのよ。私がいるのには気づいてたと思うんだけど、なんか慌ててみたい」
「慌ててた?」
「うん。慌ててたっていうか、取り乱してた? って感じ」
「ふーん……あ、もしかして」と初月はさもいいことを思いついたと言わんばかりに人差し指を立てた。「『子どもができちゃったの』とか?」
「昼ドラか」と真純がつっこむ。
「サーモン二つとカルボ、上がったよ!」という声がキッチンからして、初月は取りに行く。
「そう言えば」と真純が思い出したように言う。「さっきのキャップのお客さん、大丈夫だった? アイスコーヒーの人」
「あ、はい。なんて言うか……生きるうえで大切なことを教えてもらいました」
初月のその答えに真純はきょとんとしていたが、すぐに「なら、よかった」と言った。
パスタを三つ届けた帰りに、レジの前に立つ客が目の端に留まった。青いキャップにちょっと気まずさを抱きながら、「ありがとうございましたー」といつもどおりを装いレジに入る。
「千五百六十円です」
男が「ちょっと待ってな」と言いながら財布の中を覗き込むのを見ていると、「さっきはありがとうございました」という言葉が口を衝いた。小銭を探っていた男の手が止まる。
「姉ちゃん、さっきも『ありがとう』言うたな?」
「え?」
「間違った言うて謝り来た時」
「そうでしたっけ?」
「せやで。自分、なんで『ありがとう』言うん?」
「え、なんでって……なんか、生きるうえで大切なことを教えてもらったかなって。教えてもらったら、『ありがとう』かなって」
初月は言いながら、私は何を言ってるんだ、と穴があったら入りたい、とまではいかなくても、ここから立ち去りたい気分にはなった。男は、ふん、と鼻で笑うと、「なんや、わかってるんやないか」と言った。
男は結局小銭が足りなかったらしく、散々時間を費やした挙句に千円札を二枚取り出した。初月が渡したお釣りを受け取り、ガラス戸を押す。
「ありがとうございました」
初月の言葉にわずかに振り向くと、口元を緩めた。
「また来るわ」
「『また来るわ』……か」
その言葉が妙に嬉しかった。初月自身も自分がその時の感情を的確に表現することはできなかったが、強いて言うなら、人生とか未来とか呼べそうなものに少しだけ希望を抱ける気がしていた。
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