第一話 準備 一

「それにしても、今日は実に良い天気だな」

 隣で穏やかな深い声でシュレルがそう言ったので、私は小さく息を吐いた。

「ふう……あの、ソフトランディングのためのアフターフォローでしたっけ? それ自体は実に有り難いのですが、その――それで宜しいのですかね」

「宜しいのですか、とはどういう意味かね」

 シュレルが真顔でそう聞き返してきたので、私は僅かに頭が痛くなった。

「はっきり言わないと通じないのですか。分かりましたよ。確かシュレル様は女神のはずですが、今日の恰好は一体何なのですか? それは流石に女神とは本質的に異なるように思いますが、それで宜しいのですか――と、そういう意味ですよ」

「ああ、そういうことかね。ふむ、それであれば大した問題ではない」

 シュレルは屈強な腕を組んで、右手で顎を撫でながら言った。

 私は無言で『彼女』を見上げた。私よりも頭一つ分高い上背に、鋭い眼と高い鷲鼻。彫りの深い彫刻のような顔の作りからは、大人の香りが溢れ出している。腕や胸、足などは服の上からでも鍛え上げられた筋肉の存在が察せられる。比較的細い首や腰にしても、華奢な印象は全く受けない。

 正真正銘の武人――女神とは間逆の存在である。最初に「シュレルだ」と自己紹介されなければ、全く気がつかなかったところだ。

「むしろこちらの姿のほうが、君にとっては都合がよいのではないかね」

「まあ、そうですけれど……」

 女神にとって、自我同一性や性同一性は問題にならないのだろうか、と考える。

 ただ、確かに厳格な家庭教師のような姿で同行されるよりは気が楽ではある。あの姿のままでは『若い燕をかこった、真面目だけがとりえの融通の利かない年増女』感が半端ではない。この世界にそんな概念があるのかどうか分からないものの、少なくとも私にとってはこちらの姿のほうが精神衛生上好ましい。

 なので、それ以上口答えはしないことにした。ただ、

「では、最初に家を探そうではないかね。ついでにその途中で、この世界に関するレクチャーもしておこうと思う」

 と、シュレルが男らしい声で言ったので、頭痛が更にひどくなったような気がした。


 *


 異世界転送後の初めての夜は、シュレルが彼女を信仰する教団の名前を使って予約した宿で過ごした。

「私がご本尊なのだから、当然」

 と彼女は言っていたが、私には「教団の名前をかたった」ようにしか思えない。それでも、宿屋の受付と最小限の会話をするだけでよかったのは、正直有難かった。

 なぜなら、まだシュレル――女神の固有名詞ではなく、この世界全体のほう――の世界観が把握出来ていなかったからである。不用意な行動でトラブルに巻き込まれるのは御免だった。

 翌朝、迎えに来たシュレルを見て唖然としつつ、前述の会話を交わすと、その後はシュレルの世界観に関する説明を受けながら、町を歩いた。

「この世界の基本的な概念は、地球の、それも現代日本とそう変わりがない」

 大通りを歩きつつ、いきなりシュレルがそう断言したので、私は反論した。

「そんなのご都合主義過ぎておかしくないですか? そりゃあ小説だったら、読者の混乱を最小限にするために、英語をそのまま持ち込んだり、価値基準も現代日本そのままのものをベースにしたりと、乱暴狼藉の限りを尽くすところでしょうか、これは真剣まじもんですよね」

「確かにそうなのだが――君、世界で最も数の多い生命体は何だと思うかね」

「それは――昆虫や微生物と聞いたことがあるように思いますが」 

「それで正しい。ということはリアリティを追求するのであれば、昆虫または微生物が支配者となった世界を想定するのが筋というものではないのかね」

「それは……」

 そこで私は首をひねった。

 地球の昆虫や微生物が知性を獲得することは、まず有り得ないことのように思われたが、多数派であるのは事実であろうから、人間とは異なった道筋で知性を獲得することになってもおかしくはないように思う。

「ということは、君は微生物の世界に類稀なる能力を有する勇者として転生して、そこで成り上がる――というのが正しいあり方ということになる」

「いや、それは流石に飛躍しすぎのように思いますがね」

 一応反論したものの、声は先ほどまでとはうって変わって弱々しくなる。私もシュレルの主張のほうが、飛躍しすぎとは思うものの、本質に近いように思ったからだ。少なくとも、ヒューマノイド・タイプが普通に支配階級となっている世界を前提とするほうが、無茶である。

 私の逡巡に気がついたのか、シュレルはさらに畳み掛けた。

「それに、概念だって現代日本のそれのほうが少数派の異質なものだと考えられないかね。無論、言語体系だって異質なのが標準で、相互に翻訳することすら不可能だろう。経済だって通貨制度を基本に置いているとは限らない。魔法世界における擬似通貨の運用だって、考えようとすれば考えられるはずだ。しかし、そんな何でもありな設定では、例え小説であっても読者がついてこられないのではないか。そもそも、今からやろうとしている『家を買う』行為だって、所有という概念を持たない世界では成立しない。となれば、人間世界を前提としない純粋なファンタジー世界を構築するためには、全ての概念を一から構築する以外に方法がないことになる。ドワーフとかホビットとか、自然に出している場合ではなかろう?」

「……そうかもしれませんね」

 私は不承不承ながら同意する。

 それを見たシュレルは、少しだけ恥ずかしそうな顔をしてから、言った。

「というわけで、シュレルの基本概念は現代日本とさほど異ならないのだよ。細部に相違はあるがな」

 彼女のその言葉を聞きながら、私はあることに気がついた。

「あの……そうなると根本的な疑問を抱かざるをえないのですが」

「何かね。言ってみたまえ」

「その、ということは『この世界でカウンセリングのクリニックを開業しよう』と考えていること自体が、かなり無茶な行為のように思うのですが」

 途端に、シュレルは鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった。 

「あ、そういえば、そういうことも考えられるわな。そうか、そうか、なるほどね」

 しきりにうなずき始めたシュレルを見て、私は激しい不安に襲われた。

「あの、大丈夫ですよね?」

 そう、確認せずにはいられない。そうでないと私がこの世界にいる前提条件が完全に崩れ去るからだ。

 それに対してシュレルは、腕組みをしながら上体を僅かにそらして、言い切った。

「大丈夫だ。私はこの世界の女神なのだからな」

 その自信に満ちた姿を見つめながら、私は考えた。

 ――だからさぁ。

 武人の姿で女神の力を語られても、全然説得力がない。

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