第4話 光ちゃんと新太くん&光くんと比奈ちゃんの関係

ガシャン、そんな音がして私はこれが現実なんだとわかる。きっと私と彼の足元にはさっき買ってきたばかりの卵がぐしゃぐしゃに中身を派手にぶちまけているのだ。あぁ、まるで今の私の心の中のようだ、そう思った。

「ど、どういうこと?」「ど、どうして?」

新太くんとピヨちゃんの声がうまく重なる。きちんとは聞き取れなかったけど、だいたい同じようなこと言っているのだろうことはわかっていた。だってきっと二人は今、同じような表情をしているに決まっている。

「・・・ッ」「あ、比奈!!」

背中に触れていた彼の手が離れてすぐ横を風が通っていく。おかげで私は新太くんと二人で家の前に今日美味しく食べるはずだった食材と共に残された。あぁ、もう泣きたい。

「・・・忘れ物を、届けようと思って。」

新太くんは悲しそうに笑って片手に持っていた紙袋を見た。私は何も言えずに、新太くんのヨレヨレになっている茶色いコートを見ていた。

「ごめん、何か・・・邪魔したみたいで。」

ピヨちゃんはずるい。走って逃げて。私も走って逃げてしまいたい。こんなとこ一分一秒だっていられない。新太くんはこんな風に言ったりするような人じゃないはずだ。けれど、こんなシーンに出くわしたら誰だって誤解してしまうに決まっている。

こんなシーン?こんなシーンって何?誤解ってなに。あぁ、もう訳わかんない。何これ。何なのこれ。どうしてそんな悲しい目をするの。どうしてそんな風に傷ついたみたいに言うの。泣きたいのは、私だよ。泣いてるのは、私だよ。

「・・泣かれちゃ、俺・・どうしたらいいかわかんないよ。」

「私だって、わかんない・・・よ、」

胸が苦しくて苦しくて息が出来ない。私だって好きで泣いてるんじゃない。泣けば解決するなんてそんなことちっとも思ってない。思ってない。

「ひかる、」

「・・抱きしめて、笑ってよ。大丈夫だよって、言ってよ、」

「・・ごめん。」

あぁ、もう。どうして近づいてきてくれないの。そこに立ち止まっていれば世界は元に戻るとでも思っているの。抱きしめてよ、こんなに泣いてるのに。どうしてこっちにきてくれないの、息できないよ。大丈夫、俺はわかってるからって、受け止めてよ。

「ごめん、ひかる。」

あなたは、やさしすぎる。他人にも、自分にも。

 比奈の表情が驚いていたそれから、段々と変わっていく。

「ど、どういうこと?」「ど、どうして?」

比奈とnew太の声が重なって、それを聞いた彼女の体が小さく震えた。怯えているのは、俺も同じできっと俺たちは同じ表情をしているに決まっている。どうなるだろうか、これから。どうなりたいのだろうか、これから。触れている背中から、彼女の感情の温度が伝わってくる。

「・・・ッ」「比奈!!」

比奈がくるりと向きを変えて駆け出した。反射的に手を離して彼女の横を通りすぎていた。

「比奈、ちょっ・・比奈ってば」

走って逃げようとする比奈の手を掴んだ。目の前で比奈のさらさらの髪が跳ねて踊る。肩を着かんでこちらを向かせれば、頬を次々と涙が流れていた。

「ッ、比奈、」

「放してっ、」

悲しそうに歪んだ表所に胸の奥がズキズキする。それが走ったからじゃないことくらいわかっている。ぎゅっと抱きしめた比奈の体が少し強張って胸に響く声は非難に満ちている。

「泣くな、」

「やだっ、こうくん・・放してっ」

「放したら、泣くのやめる?」

「っ!!ふざけないでよっ!!」

ドンッ、すごい力で胸を押されて強い口調で拒否された。今までにないような表情で比奈は俺を見つめる。なんで、なんでそんな顔を

するんだよ。何で泣くんだよ。どうしてそう思うんだよ。俺は、こんなに本気なのに。何で泣くんだよ、どうして逃げるんだよ。

「・・、」

「こうくんが、そんな人だと思いませんでした。もっと・・誠実で優しい人だと思ってた。」

そんな人ってどんな人?俺は初めからこういう人間だよ。誠実で優しい人って何。今の俺は、俺は優しくないの?誠実じゃないの。比奈に俺はどう見えていた?俺は比奈の前でどんな人間だった?

「比奈は、俺を・・どう見てたの?」

わからない。もう、何もわからない。さっきまで触れていた彼女の温もりが遠く感じられた。置いてきてしまったけど、大丈夫だったろうか。落としてしまった食材は火を通せば食べられるだろうか。あぁ、今日はすきやきだったのに。

「もう、わかりません。こうくんのこと、」

うん、俺も、わかんないよ。

 バタン、できるだけ静かに閉じたはずなのに。古くもないくせに扉は大きな音をたてて、大げさに俺の帰宅を告げた。

「・・良い、匂い。」

家の中は温かい匂いで満ちていて、家の前にはなくなっていた買物袋に入っていた食材で作ったのだろう料理が机の上にあった。

「・・・すきやき、だ。」

「あ、こう。おかえり~。ナイスタイミングです。」

にこりと笑うと彼女は、俺の箸とコップと取り皿を机に置いた。どうなった、喉まで出かかった言葉を笑顔で飲み込んで食卓についた。ぐつぐつと美味しそうな音で鳴くすきやき。

「うまそう、」

「何か、飲む?お茶?ビール?」

「何買ったんだっけ・・・ビールか。」

こうしているとさっきのことなんて何もなくてただ俺が少し違うことをしている間に彼女が珍しくごはんを作ってくれただけのように思えてくる。

「ビール、飲むかっ!!」

ばっと彼女はビールを二本持ってやってきた。二本、ということはかなり飲む気だ。つまりは一人一本。やはり何もないということにはならないらしい。そう思いながら、俺も一本くらいは飲めてしまいそうな気持ちだ。

「おー!!よしっ、飲むか!!食うか!!」

だって、どうしたらいい。心の中で誰かが叫んでいたからそれに負けないように大声で笑った。彼女はほんの少し変なものを見るように俺を見て、けれどすぐに悲しそうに笑った。何を考えてた、なんて聞かなくてもわかる。君は俺の心を俺なんかよりずっとよく知っているし、俺だって君の心を考えなくたってわかるんだから。

「良いお肉だかんね。味わって食おう。」

君に聞けばいい。俺はどんな人間て。優しくて誠実?それとも、冷たくて不誠実?目の前で俺の器に春菊ばかりを入れてくる彼女なら知ってるでしょ。

「たまごは?」

「ない。全滅。」

「嘘・・・・」

「うそ。生き残りがそこにいる。」

「え、これだけ?これしか生き残れなかった?」

「生存率三十パーセント」

「少ない・・マジで?」

「だから、明日のお弁当と朝ごはん用の卵焼きはなし。」

「うわぁー・・それは嫌だ。」

「でも、じゃぁ、すきやきを卵なしでいくしかない。」

「うおー・・それもキビシイ。」

「でも、両方分はないのだよ。どちらかを選ぶしかあるまい。」

「・・うー・・じゃぁ、まず一口か二口を卵なしでチャレンジします。」

「うむ。」

「そして、やっぱりダメだって思ったら、卵焼きをあきらめる。」

「なるほど、賢明な判断じゃ。」

「ははーっ。」

あぁ、やっぱりそうだと思った。そう思いながら、そっと彼の差し出した手に卵を一つ乗せた。私の手が軽くなって彼の手が重みで少し落ちる。

「ひかる。お前、春菊!!」

「だって、嫌いなんだもん。」

「もん、じゃない。もんじゃないぞ。」

もし、こんな時私一人だったらと思うとゾッとした。きっと冷蔵庫の中の酒を一人で飲み切っていたし、泣いて体中の水分を出してしまっていた。春菊を切りながら、葱を切りながら、私はずっと彼が扉を開けて帰って来てくれるのを待っていたんだ。どうしても、どうしたって、新太くんは私のことを抱き締めてはくれなくて。忘れ物を渡すときだってずっと遠くから手を伸ばしてふくろを突き出した。あんなこと、あんな風にする人じゃないのにそのはずなのに。じゃぁね。と笑ってすぐにどこかに行ってしまった。泣いている私を残して足早にいなくなってしまったの。

「・・こう、ごめん。ありがと。」

「ひかる、」

彼が帰ってきてくれなかったら、と思うと怖くて、なのにピヨちゃんを悲しませないでほしいなんて思ってもいない黒い優しさを必死に塗りたくって。帰って来てほしいのに彼は帰ってこないかもしれない。壊れてしまったのは私だけかもしれない。あぁ、彼さえいれば、彼さえいなければ、彼さえ、君さえ。ぐるぐる回る感情に答えも問いも見つけられずにただただ、

「こう、ごめん。ありがとう・・こう、」

「ひかる、」

頬を流れ落ちていく涙をぐじぐじ擦っていた袖を彼の大きくて優しい手が掴んだ。こするな、落ち着け。触れている肌から彼の気持ちが伝わってくる。彼の考えなんて触れるようにわかる。触れなくてもわかる。

「こう・・う・・こう、ごめん・・愛してるよぅ・・」

「ひ  か  る」

私の体がこのまま涙とともに溶けてしまえればどんなに。

 触れている腕に知らずに力が入って、彼女の顔が少しだけ痛みに歪む。それでも止まらない涙が、次々と流れて床に落ちていく。このカーペットは一体どれくらいの涙を吸っているんだろう。これからもきっと君はたくさん泣くだろうから、高分子吸収体じゃないとダメになってしまう。そんなことを考えて

「こう・・愛してるんだよぅ」

君の唇が紡いだ言葉はずっと俺の心に燻っていた感情の正体を的確に言い当てたみたいだった。気づけば俺は笑っていて、君は泣いていて、もう何もかもがおかしくて俺は涙でぐちゃぐちゃの君をぎゅっと胸に掴まえていた。

「俺もだよ。・・・俺も、愛してるよ。ひかる、」

「うぅ・・ぅう」

胸に響く彼女の声と体に伝わる体温がさっきまで乱れていた心を穏やかにしてくれるのがわかった。言わなくたってわかってた。言う前からわかっていた。それなのに、近づきすぎないように、見えてしまわないように、バカみたいに必死に隠していたんだ。

だって、そうしないとどうしたらいいのか、わからなくなるから。

「こんなに、こんなに、泣かせたくないって思うのに。幸せになれって思うのに。」

体と体の間に隙間なんてなくなるように抱きしめた。そうすれば、俺の心が取りこぼしなく全部伝わる気がした。言葉はなんて曖昧で、俺たちの気持ちを表すにはどこか足りなくて、どうしてもっとピッタリとしたしっくりした形にならないんだろうって、苦しくて悲しくて。

「この世界に、俺とお前しかいなければ良かったのに。」

そうすれば、俺は彼女だけを見て生きて行ける。彼女も俺しか見なくても生きて行ける。何も誰も傷つけることなく当たり前のような顔をして一緒にいられるんだ。

「そんなの、無理だよ。」

「わかってるよ、そんなこと。」

俺は笑ってて、君は泣いている。何もかも、どこも誰も、ぐちゃぐちゃでごちゃごちゃなのに頭はひどくはっきりしていた。抱き枕を抱きしめるように彼女の小さく柔らかい体を抱きしめたまま、そのまま。

このまま、世界は止まらないだろうか。

地球は回転をやめたりしないだろうか。

そんなわけない、と思ってもひょっとしたらと願わずにはいられない。どうか、誰でもいい、誰か。

次に目を開けたら、彼女が傷つかない世界にしていてください。

 このまま、世界が終わればいい。それとも、何もかもが無に戻ればいい。背中に周った卯腕は彼の気持ちに比例して優しさしかない。藁にしがみついているみたいだ。そうしないと、この悲しみの淵に落ちてしまう、非力な子どもみたいだ。

このまま、しがみついた私たちだけを残して地球の生物が死に絶えてしまわないだろうか。アダムのイブにはならないだろうか。

どうか、神様。神様、お願い。

次に目を開けたら、彼が胸を痛めなくてもいい世界になりますように。


 時々、夢を見る。

悲しい夢だ。

何もない。何も思い出せない。

誰もいない。

理解されない、孤独があふれる。

悲しい、夢。

そんな夢を見ると、いつも。


 目を開けた。

すぐ目の前には彼女の顔があった。あぁ、あのまま寝てしまったのか。すきやきを半分も食っていない。ビールも開けたまま結局、一口程度しか飲まないまま、気が抜けてしまっているだろう。

「・・・、」

今、何時だろう。今日は日曜日のはずだ。いつまででも、身を任せていたいまどろみの中。彼女を抱きしめて、また目を閉じた。

 時々、夢を見る。

悲しい夢だ。

何もない。何も思い出せない。

誰もいない。

理解されない、孤独があふれる。

悲しい、夢。

そんな夢を見ると、いつも。

目を開けた。

すぐ目の前、ゼロ距離に彼の顔があった。長い睫毛とか、常に少し上がっている口角とか、産毛なんかも見える。こうしてみると、やはり男前だなぁ、こいつ。憎らしい。

「・・・・、」

今、何時だろう。今日は日曜日だけど、やらなきゃいけないことがあるんだった。いつまでも身を任せておきたいまどろみを振り払って彼の長く逞しい腕から抜け出そうともがく。

「うー・・」

「ちょっと、こう。起きるから、離して。」

「・・何、トイレ?」

「はばかり。」

寝ぼけて半分しか開いていない目で、彼はじーっと私を見てゆっくりと閉じた。腕はさっきよりも幾分緩んでいるが。ふわふわのくせっ毛を乱暴に撫でてやると、ううんと唸って反対側にごろり。

「ふふ、ばかめ。」

おかげで、自由になった体を起こして呟く。机の上には、昨日結局食べ損ねた、すきやきと飲み損ねたビール。

溜め息を吐いて、立ち上がる。

朝ごはんを食べたい。空腹を訴える胃に何かを入れないと今にもこのお腹は背中とくっついてしまう。開けた冷蔵庫は、たくさんの食材を入れているので幸せそうだ。

すぐに出来るがいい。すぐに食べたい。

「ココアと・・ドーナッツある~」

おやつにでも、と買っておいて良かったよ。試食のおばさんありがとう。いつも鬱陶しいとか思っててごめんなさい。牛乳を鍋で温めてドーナッツを皿に盛る。あぁ、久しぶりな不健康な朝飯。

「私は悪い子、悪魔の子~」

懐かしいフレーズが私の口から流れる。こんな風に不健康な暮らしをしていた、その昔。よく言っていた言葉。

「いるだけでわかる不幸な子~みなさん、お逃げ。不幸が来るぞう。」

出来たココアをマグカップに注ぐ。後ろを向こうとした背中に低い声が聞こえる。なんでしばらくこのフレーズを口にしていないかを、同時に思い出した。

「俺は良い子、天使の子~、いたらわかる優しい子~みんなおいでこっちにおいで。」

「・・・おはよ、それウザイ。」

振り向けば、やっぱりそこには彼がいた。大きな体をさらに大きく伸ばしてううーっと呻る。それから、机のドーナッツを一つ手に取って口に入れて、私の手にあるココアを大きな手で奪う。

「・・・うま。」

嬉しそうに目を細めて、彼がココアを飲んだ。仕方ないから彼のマグカップに自分の分のココアを注ぎなおした。私が飲むには確実に大きい、彼のカップ。

「久しぶりにひかるのテーマソング聞いた。・・あ、これってモーニングココアだ。」

「だから、何なの。」

「べーつに。冷たいな、今日。」

ドーナッツは甘くて、ココアも甘くて、これで雰囲気も甘いと胸焼けがしそうだった。冗談じゃない、今日はやることがあるのに。

「今日、ちょっと出かける。何時になるかわかんないから。」

「あ、俺も。この後、ちょっと出かける。」

「んじゃぁ、夜ご飯は、あのすき焼きの残りで、」

「すきやき?」

「鍋焼きうどん。」

「あぁ。なるほど。」

ボロボロと零したドーナッツを、律儀に皿に入れながら、彼は頷いた。口の中はさっき食べたドーナッツでパサパサするから、ココアを飲んだ私の下は、そのドーナッツのカスだらけ。ふとさっきのフレーズが、また頭を流れた。

いるだけでわかる不幸な子。

だから、逃げればよかったのに。

心の中で目の前の天使の子に呟いた。

私だって、彼のことを好きで不幸にするわけじゃない。


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