第2話 名前も知らない少女
アパートから15分ほど歩くとバス停についた。
紙の時刻表や路線図がファイリングされ提示されている錆びついたポールに屋根とプラスチックで背もたれ式のベンチを備えたバスシェルターだ。
どれも所々痛んでおり経年劣化を感じた。
携帯画面に表示される時刻を確認すると午前9時24分と表示されていた。
あと5分もしないうちにバスは来るだろう。
ベンチに腰掛け若干眠気が残っているので、目を瞑る。
車通りも少ない田舎の道路と周囲が森に囲まれた環境のおかげで静かで冷たい空気が肌を撫でた。
一人で静かな空間にさらされると考えに耽ってしまう。
それは部屋の中でも同じだった。
僕は今、人生のどん底だと思っている。
何をしてもうまくいかないと思い込み、自ら地獄を作り出した世界で生きている。
未来を見ることをやめた僕がすがるのは過去に限定され、そしてその過去も決して僕にとっていいものとは言えなかった。
でも、その中で唯一美しいと言えるような特別な記憶があった。
暗闇の中程光を放つものがより一層目立つように、僕の記憶の中でも異彩に輝きを放っている記憶があった。
しかしその記憶はカギがかけられているかのように覗くことはできなかった。
どんなに思い出そうとしても断片にすら触れる事ができない。
でも、美しい記憶であったことは覚えている。
いつかその記憶を開示できる日は来るのだろうか?
<プシュゥー>
そうこう考えているうちにバスが来た。
折れ戸が開き、僕はバスに乗り込む。
周りの席はほとんど誰も座っていない。
バスの最後尾から2番目の窓際のシートに僕は座る。
椅子の下にあるであろうエンジンの駆動部が振動し体に伝わる。
プシューっと炭酸ジュースのガスが抜けたような音が鳴り、折れ戸が閉まる。
徐々にバスは動き出す。
窓の景色が変わるのをボーと眺めながら考える。
バスを見る度に連想してしまう。
中学生1年生を終える間近の春先頃。
僕はバスと交通事故にあったらしい。
あったらしい、というのは事故にあった事自体覚えていなかったからだ。
あの日から僕の記憶は一部欠損している。
横断歩道を横断中にバスが入ってきて衝突し、僕の体は吹き飛ばされた。
更に打ち所が悪く頭を強打したらしい。
その後医者から言われたことは事故の後遺症で記憶が一部無くなったということだった。
当時はショックだった。
一部といっても何を忘れてどこからどの期間が対象なのか、それが今後の生活にどんな影響を及ぼすのか全く分からなかったからだ。
でもそんな心配はすぐになくなった。
復帰後、それといって生活に支障がなかったからだ。
きっと記憶を失ったといっても昨日の夕飯はなんだったのかと同じくらい忘れてもいいことを忘れたのだろう。
しかし交通事故という恐怖はあの日以降増大し交通機関を見る度変に緊張するようになった。
僕にとっての後遺症は記憶喪失より身に覚えのない交通事故によるトラウマだった。
「あの、すみません」
横から声を掛けられそちらを向く。
紺色の制服姿の少女がバスの通路に立ち僕の方を見つめていた。
似た目から判断して女子中学生?くらいだろうか。
1本1本毛先がサラサラしている黒髪が肩の高さまで伸びており、顔のラインに合わせて巻き付けるように少しカールしていた。
黒い髪とは対照的な白い肌にぱっちりとした目と小さい鼻。
かなり整った顔立ちと少し押せばそのまま倒れてしまうんじゃないかというくらいか弱さを表現しているような容姿は率直に言えばかわいかった。
紺色の膝まで伸びたスカートに同じく紺色で胸元ある白いスカーフが特徴的で、その上に少し大きめのセーラーブラウスを羽織っていた。
「えーと・・・」
僕は彼女の姿を見るなり固まってしまう。
普段引きこもっているので人と話すこと自体ないからだ。
完全な人見知りだった。
「どうしたの?僕に何か用?」
妙に緊張してこわばった声が出る。
彼女は下に俯き何も答えてくれなかった。
数十秒程経ちようやく話してくれた。
「隣、座ってもいいですか?」
質問を質問で返され一瞬ひるむ。
その言葉をすぐには理解できなかった。
あまりにも今の状況に適していない発言だったからだ。
周りに空席はたくさんあるのになんでわざわざ僕の隣を選ぶのか。
特別断る理由も無く僕は「どうぞ」と隣の席を促した。
彼女はゆっくりとした動作で席に腰掛ける。
ふう、と一息ついた後僕の方を訝しげな表情で見つめてきた。
見てきたり見てこなかったり忙しい人だな。
「私の事、覚えていますか?」
彼女はまた唐突な質問をする。
その言い草だと彼女は僕の事を知っているみたいだが。
僕の方は見当もつかないくらい覚えがなかった。
「ごめん、どこかで会ったけ?」
彼女は僕から目を逸らし暗い顔で下に俯く。
「私の名前は佐野ユリカです。これでも、わかりませんか?」
佐野ユリカ。
全く聞き覚えのない名前だった。
でも完全に彼女は僕の事を知っている口ぶりだ。
彼女とどこかで出会ったことがあるのだろうか?
「・・・いつあったのかな?最後にあったのは何年前?」
「もう6年くらい前ですかね。それっきり会ってないです」
6年前。
僕が13歳の頃か。
「ごめんね。思い出せなくて」
「そう、ですか。分かりました」
お互いそれから話すことはなく僕は車窓から外の景色をボーと眺めていた。
やがてバスは止まる。
駅の名前も聞かずにバスから降りた。
錆びついたポールに所々割れている青いベンチのみが設置され後は周囲にこれといった特徴のあるものは見当たらなかった。
何もなさげな田舎。
四方八方が昨日の雪の影響で白く染まっており、かつては緑が生い茂る山々と作物が生え肥やされた畑も埋もれていた。
あれから本当に食物が育つんだろうか?
車が走る道路はコンクリートで舗装されておらずぼこぼこの土の道がタイヤの跡でできていた。
住宅もポツポツと見かけるが在来工法の古い建物で漆喰で打たれたいぶし瓦や茅葺屋根などまるで昔の世界にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。
「なぁ、ついてくるのか?」
僕は隣にいる制服姿の少女に話しかける。
同じく物珍しそうに周囲を見渡していた。
「いけませんか?」
少女は硬い表情で答える。
「いけないことはないけど」
「なら、ついていきます」
そう言って僕の後ろ側に回ってくる。
少女の目的が全く読めず怪しさしか漂わないが。
この時は不思議と彼女の同行を簡単に受け入れた。
「ちなみに僕達ってどんな関係だったのかな?」
「友達でした。昔はよく一緒に遊びましたね」
「そうなんだ・・・僕にもそんな友達がいたのか」
名前も顔も知らない友達が6年ぶりに目の前に現れた。
僕だけが忘れている、となると心当たりが一つだけあった。
事故による後遺症で記憶を失った。
もしかしたら彼女に関する記憶が喪失したのかもしれない。
確信はないし、ただ単に時間が経って忘れている可能性も十分にある。
やめよう、また堂々巡りだ。
「さて、降りたはいいけどどこにいこうかな・・・。佐野、さん?どこか行きたい場所ある?」
「私は特にはありませんね・・・あなたが用事があるからここに来たんじゃないんですか?」
「全然っ!用事はないよ。ただ何となく降りてみただけ。目的地のない旅って感じかな?」
「当てのない旅ですか・・・素敵ですね」
彼女は関心を示しているようだった。
てっきり暇な人なんですねと嫌味の一つでも言われるのかと思ったが。
「あと、私の事はユリカでいいですよ。6年前もそう呼んでいました」
「そっか。ごめん、全然覚えてなくて・・・ちなみに僕は君になんて呼ばれていたのかな?」
「・・・スミレ君、です」
彼女は顔を逸らし恥ずかしそうに言う。
照れているのか、こっちまで気恥ずかしい気持ちになる。
お互い下の名前で呼び合っていたのは驚きだった。
「そっか。名前で呼んでいたのは意外だったなぁ。じゃあユリカ、多分退屈な半日の旅になるだろうけど、それでもついてくる?」
「えぇ、スミレ君についていきます」
なんだか変に緊張してしまう。
相手は中学生とはいえ、女子を下の名前で呼ぶのは初めてだったからだ。
あくまで僕が覚えている中の話だが。
こんな美少女を下の名前で呼んでいたなんて。
6年前の僕はどんなやつだったんだ?
立ち止まっていてもしょうがない。
僕たちは歩くことにした。
凸凹で狭い雪原の田舎道を歩き広大な自然を楽しみながら進んだ。
森が近くにあると木の呼吸で空気清浄機の様に空気がきれいになるのか、マイナスイオンが関係しているのか。
とても澄んでいて空気がおいしいと感じた。
雪道に足跡をつけながら進んでいき、やがて森の中に入る。
わずかに漏れる木漏れ日とその光を雪が反射して輝いている。
息を吐けば白い吐息は出るものの最近の異例の寒さと比べたらこの場所はむしろ涼しさすら感じることができた。
「ユリカ、さすがにその格好は寒くないか?制服だけじゃないか」
僕がプルオーバーパーカーにチェスターコートを羽織っているのに対してユリカは冬用の学生制服しか着用していなかった。
毎回思うが、女子のスカートは冬寒くないか?
ズボンという選択肢を与えてもいい気がするのだが。
「私は大丈夫です。いつもこの格好ですから」
と言われてもさすがにな・・・。
確かに寒そうな仕草は一切見せていないが。
僕は羽織っているチェスターコートを脱ぎ彼女に差し出した。
「本当に大丈夫ですよ。あなたが寒くなるでしょう?」
「男のほうが体温高いから、ちょうど暑いと思ってたんだよ。これでお互いちょうどいいよな」
僕はチェスターコートを少女の肩にかける。
目の前で屈伸や足踏みと準備体操を見せ余裕だぞとアピールをする。
少女は僕の意思を汲むようにしぶしぶコートに腕を通した。
サイズが合っておらずブカブカで手元は袖で隠れ足元はほぼコートの中で見えなくなっていた。
そのぎこちない姿が可愛らしいと思った。
「うん、よく似合っている」
「・・・ありがとうございます」
ユリカは照れくさそうにして顔を逸した。
褒められるのは彼女もまんざらではないらしい。
林の中を彷徨うこと数十分。
木漏れ日で照らされる道と雪道を歩くたびにサクサクとした感触を刻みながら奥へと進んでいく。
ユリカとの会話もそのたびに少しずつ重ねていった。
しかしお互い話すのが苦手のため会話というよりは質疑応答の形式に近かった。
でも決まりの悪そうな質問に関しては互いに黙秘した。
目の前の自然が広がっている景色や木の枝に停まっている鳥や雪原の美しさなどといった綺麗だね、かわいいね、好きだなぁという単純な質問の投げ合い。
お互いを知るためのコミュニケーションは人見知りを披露しただけだった。
やがて雪林を抜け開けた場所に出る。
そこは林と林の間を縫うように透明な川が流れ、鏡のように澄んだ水面は雪景色を映し出し水面下にもう一つの世界を作り出していた。
川沿いには長く伸びたヨシの穂みたいなものが生えており風が吹く度頭を揺らしていた。
そこで僕は違和感を覚える。
この場所、どこかで見たことあるような。
決して来たことはない。
でも得体の知らない懐かしさを感じてしまう。
周囲を見渡しているうちに、ユリカの顔が視界に入る。
そこで僕はくぎ付けになってしまう。
彼女はとても悲しそうに、悔しそうに僕の顔を見つめていた。
そこで僕は察してしまう。
きっと大切な記憶を僕は忘れてしまったんだ。
目の前の少女に涙をにじまさせてしまうくらい。
僕と彼女の間にある何かを失ってしまったんだ。
「ユリカ・・・」
今日初めて出会うはずの少女になぜここまで胸が締め付けられるのだろう。
どこかで懐かしさを感じて、でも僕たちが昔出会ったことがあるのは定かではなくて。
きっと記憶のどこか断片的な部分が覚えておりそれが懐かしさを連想させているんだろう。
今目の前の景色もどこかで似たような日々を生きたからこそ類似の記憶が反応してどこかで過ごしたことがあると錯覚しているんだと思う。
「君が悲しむ理由が僕にはわからない。でもそれはきっと、僕が関係していることなんだよね?」
ユリカはこくりと頷く。
少し目が赤くなっていた。
「ごめん。今はどうしても思い出せない。でも絶対、思い出してみせるから。だから、待っていてほしいんだ」
記憶を取り戻す。
そう言ってあげたら彼女は喜んでくれるのかもしれない。
安直な考えだ。
「思い出さなくても大丈夫です」
ユリカははっきりとした口調で拒絶した。
コートを脱ぎ、それを僕に返す。
「私、用事思い出したので帰りますね」
ユリカはぎこちの無い微笑みを浮かべ、僕の返事を待たずにそのまま小走りで離れていった。
嘘をついて誤魔化したというのは分かり切っていた。
僕は間違いなく彼女を傷つけた。
だからこそ走り去ってしまった。
彼女の背中は林の中に紛れ見えなくなった。
僕は川に向き直り近くにあった岩に腰掛けて座る。
確かに僕は、こんな場所で過ごしたことがあるはずなんだ。
それが現実なのか、失われた記憶の中なのか、はたまた夢の中なのか。
どれだけ考えても堂々巡りを繰り返すだけだった。
なんとなく心が落ち着くからしばらくここにいよう。
川の緩やかな流れ、肌を撫でるような涼しい風、聞こえる鳥のさえずり。
自然が作り出す神聖の中で僕は満足するまで過ごした。
数時間後にはまた車窓を眺めていた。
辺りはすっかり暗くなり街の光が眩しい。
彼女は無事に帰れただろうか?
女子中学生を一人で帰らせるのはよくなかった。
せめて離れたところからついていくべきだった。
気の利かない男で申し訳ないと心の中で謝る。
きっと彼女は僕に会いに来たんだろう。
でも会いたかったのは記憶を失う前の僕で今の僕じゃない。
だからこそ、目の前から消えてしまった。
もう会うこともないだろうと、その時は思っていた。
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