第九夜 弟

ドナー提供者を待って三年が経った。

国内には腎臓の提供を待つ人が一万人以上いるという。まして僕と弟は珍しいHLA型を持っており、適合する臓器は1%にも満たない。

その天文学的な確率を乗り越えて、弟に順番が回ってくるのはいったいいつの日になるのだろう。


体中からたくさんの管を出して、それでも気丈に振る舞う彼の姿を見ていると、胸がいっぱいになる。

プリンを食べたいというから院内のコンビニで買ってきてあげたら、もう一人で食べられないほどに衰弱していることを知った。

僕が弟の手となって、ひとくちずつプリンを口に運んでやると、彼は僕に向かって柔らかく微笑んだ。


やめろよ、て思う。

僕はそんな笑顔を向けられるような人間じゃない。


「新しい病室、景色良いじゃん」


僕が適当なことを呟いて窓の外を眺めるときは、潤んだ目をごまかすときだ。

世界の片隅で孤独に死と向き合う弟に、兄としてできることがただ待つだけなんて、ちょっと残酷すぎる。

僕に膨大に残された時間に反比例して、弟に残された時間はあまりにも短くて儚い。


腎臓。

腎臓が欲しい。


思えば、僕の人生はクズそのものだった。

高校を中退してから、就職もできずにコンビニで夜勤のバイトをしている。

たまに仕事がない日は夕方まで寝て、夜中に起きてきてはゲームをする。

何も生み出さず、誰にも影響を与えない。

言うなれば、いてもいなくてもいいような空気みたいな存在。


対して弟は、僕とは正反対の人間だ。

病気になるまでは本当に眩しく輝いていた。

学校の成績はトップクラス。

運動神経抜群で、テニス部のエース。そしてなんと言っても絵が上手い。

絵画の国際的なコンクールを何度も受賞しては、それをなんでもないことのようにサラリと僕に告げた。


僕は弟に対してだけは、不思議と妬みや嫉みが起きない。

まるで自分のことのように嬉しかったからだ。

天才ともてはやされる弟の才能に、なぜか僕まで誇らしくなって、一緒になって夢を見ていた。

将来は画家か漫画家かイラストレーターか。

いずれにせよ約束された輝かしい未来が弟を待っている筈だったのに。


そこまで考えたところで、僕の頭の中はあるひとつの考えによって支配されていた。

弟に唯一間違いなく適合する自分の臓器を、己が死ぬことで提供するのだ。

どうせ待っていたってドナー提供者など現れない。

今すぐにでも彼に臓器を与えられるこの考えは、素晴らしいアイデアのように思えた。

クズが死んで秀才が生き残る。こんなに正しいことはないだろう。


今晩にも決着を付けよう。

臓器を傷つけない死に方を選ばなければいけない。

そして僕が死んだ後は、速やかに臓器を摘出してもらわなければならない。

全てが上手くいくように綿密に計画を立てた。

そしてその日の夕刻、それを実行した。


耐えがたい苦痛も次第に薄れ、消えゆく意識の向こうに弟の柔らかい笑みが見えた。

僕という生き物が完全にこの世から消えるそのときまで、その笑顔を見つめていたかった。

けれど、弟は泣いていた。笑っているのに泣いているのだ。


「どうしてそんな顔をするの?」


呟いたところで、覚めないはずの目が覚めた。

僕は病院のベッドで体中を管でつながれながら横たわっていた。

あのとき浴槽一杯に貯まった赤黒い液体を思い出すと、なぜ自分が助かったのかさっぱりわからなかった。


それを理解したのは数日後、弟の死を知らされたときだった。

出血多量で死にかけていた僕を救ったのは弟だった。

稀なHLA型を持つ僕に、4リットルもの輸血を準備できる病院は県内のどこにもなかった。

救えるのはただひとり、弟しか居なかったのだ。


「お兄さんを助けようとすれば君の命が危ない」


医師の忠告を、弟は笑顔で受け流したと聞いた。

僕はもう流れ落ちる涙をこらえることなどできなかった。


その日を超えてから、僕は一日一日を全力で生きている。

弟と二人で、生きている。

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