第六夜 誘拐
とうとうやってしまった。
道に立っていた子供を衝動的に連れ帰ってきてしまった。
大きな瞳で不安げに見渡す辺りを様子が、たまらなくかわいく見えたのだ。
僕はこの子の素性を知らない。
お母さんとはぐれたのかも知れない。
連れ去ったところを誰にも見られていないという自信もなかった。
すでに警察を呼ばれている可能性だってある。
どうしてこのようなことをしてしまったのだろう、冷たい嫌な汗が背中をつたう。
あの子は今、風呂場に閉じ込めてある。
先ほどまで散々暴れていたのに、水をあげると大人しくなった。ただ単に喉が渇いていただけかしれない。
風呂場には外側から鍵をかけてあるから、逃げられることはないだろう。
不安があるとすれば、声を上げられることだ。
そうでなくても、隣の住人はなにかと僕に文句を言いに来るのだ。
テレビの音がうるさいだの洗濯機の振動が気になるだの些細なことまでいちいち報告しにくるから、僕はすっかり隣人恐怖症になってしまった。
あの子が声を上げれば、隣人はすっ飛んでくるだろう。そして僕の言い訳など耳も貸さずに騒ぎ立てるだろう。
そうなれば終わりだ。
あの子の機嫌をとり続けるしかない。
上機嫌でいるうちは大人しくしているだろう。
僕は冷蔵庫にあったなけなしのシュークリームを掴むと、風呂場へと戻った。あの子は浴槽の中で丸くなって眠っていた。呑気なものだ。
その安らかな寝顔を見ていると、僕はある悪魔的な誘惑に駆られてしまう。
触れてみたい。どうしても触れてみたいのだ。
ついにその誘惑に負けたとき、僕はおそるおそる手を伸ばして、その艶のある毛先をそっと撫でてみた。それはさらさらと手の内でほどけるようで、滑らかな絹のような手触りだった。
ふと、思い立つ。
ここにはトイレがなかった。さすがに浴槽で用を足させるわけにもいかないだろう。
僕は昔飼っていた犬用のトイレを倉庫から引っ張り出してくると、それを浴槽の端に置いた。
犬用のトイレですませるなんて我ながらひどいやつだとは思う。けれど追い詰められていた僕はそれしか思い浮かばなかったのだ。
少し臭う気もした。炎天下の中、エアコンもつけない車中に閉じ込めたから、汗をかいているのかもしれない。
僕はシャワーを出すと、眠っているあの子にむけて勢いよくお湯をかけた。水流に驚いて飛び起きると、慌てて浴槽から逃げだそうとする。
けれど、つるつるに磨き上げられた浴槽に阻まれて容易に抜け出すことができない。登ってはずり落ちるその様子に僕は面白くなってしまって、一層強くシャワーをかけては、逃げてみろ、とはやし立てた。
その後ドライヤーですっかり乾かしてあげると、ふわりとシトラスの良い匂いが香った。かわいいこの子には柑橘系の香りが良く似合う。
僕のあげたシュークリームも実にうまそうに食っていた。
そのころには僕はすっかり油断していて、あの子に逃げ出そうなんて気はないものと、勘違いしていた。
だから風呂場のドアを開けたまま充電器を取りに行った僕は、脱兎の如く逃げるあの子の後ろ姿を、呆然と見つめることしかできなかった。
「あ」と僕が呟くよりも早く、開け放たれていた窓からそのまま飛び降りてしまった。急いで窓に駆け寄って下を覗いてみると、そこにはもう何もいなかった。
僕があの子と過ごしたほんの一瞬の夏が過ぎ去った。
時折吹き抜ける風のごとく、さっぱりとしたものだった。
それでも僕の胸の内には、確かに消えないあの子の記憶が残されていた。
僕が次にあの子を見たのは、近所の公園の片隅だった。
首輪をしていたからてっきりどこかの飼い猫かと思っていたのに、どうやら野良だったらしい。
通報を心配する必要はなかったなと内心後悔した。
僕が近くのコンビニで買ったシュークリームを目の前に置くと、あの子はそれを嬉しそうに食べた。
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