第四夜 ヒュンタン
ここ数年で、母の認知症がいよいよ悪くなってきた。
特に幻聴と幻視が酷い。
突然、子供の叫び声が聞こえると言って耳を塞いだり、亡くなった父の姿が見えると言ってはふらふらとどこかへ出かけてしまう。
自宅に居ても、一階には悪霊がいるからと言って二階にある自分部屋から出ようとしない。
たまに静かにしてるかと思うと、「いた、いた」と叫びながら部屋を飛び出してきたりする。
「何がいたの?」と僕が聞くと、ヒュンタンがいたという。
ヒュンタンというのは母が創り出した架空の動物である。
母が言うには、それは巨大な狸ほどの体格で、一見真っ黒い毛玉のような姿をしている。
毛玉の中からは大きな黄色い目が爛爛と輝いていて、たとえ夜中であってもヒュンタンがいればすぐに見つけることができるらしい。
ここまではありえなくもない話だが、傑作なのはその動きだ。
母が言うには、ヒュンタンはびょいんびょいんと、まるで鞠でも跳ねるように移動するらしい。
跳ねると言っても数センチとかそういうレベルではない。二メートルは跳ねるというのだ。
まったく、冗談じゃない、何がヒュンタンだ。二メートルも跳ねる動物がいてたまるものか。
母の頭はもはや未知の動物まで創り出してしまうのだから、先が思いやられる。
未だ大した病気もなく足腰も健在ではあるが、頭の方は随分なものだ。
そろそろ然るべき施設に入れる時期がきているのかもしれない。
そんなある日のこと。
母を実家に送り届けた帰り、暗い夜道の端におかしなものを見た。
黒くて大きな、毛玉のようなものが転がっているのである。
猫にしてはいやに大きい。
近づいてまじまじとそれを見つめてみると、その硬質な毛はハリネズミに近いように思える。やはりどうみても猫やタヌキの類いではない。
毛玉との距離が数メートルにまで縮まっても、それは微動だにしなかった。
なんだか怖くなってしまって、僕はそれ以上近付くことをやめた。
もう行こうと立ち去ろうとしたそのとき、その物体がぴくりと動いた。毛玉はやはり生き物だったのだ。
生き物だとわかれば途端に愛嬌すら感じられるから不思議である。
僕はその場に再び屈み込み、毛玉を観察しようと考えた。すると、図ったように毛玉はまた動かなくなる。
それから、何分経っても毛玉は動きそうになかった。
焦れったくなってしまった僕は、身近にあった小石をそいつに向かって放り投げた。
そのときだ。
音もなく、毛玉は二メートル以上飛び上がったかと思うと、そのままびょいんびょいんと左右に跳ねて、林の方へと逃げ込んでしまった。
「母さん!」
僕は叫ぶと、実家へ向かって駆け出した。
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