第三夜 押入れの彼女
押入れの隙間に広がる闇をぼんやりと眺めていたら、唐突に彼女のことを思い出した。
なぜか今まで彼女のことを、ただの少しも思い出すことがなかった。
紛れもなく僕という人間の一端を築いた人であったのに。
はじめて彼女の存在に気づいたのは、小学生の頃だった。
寝る時間になってもまだ遊び足りなかった僕は、押し入れの中に籠もっては携帯ゲームで遊んでいた。
僕の部屋の扉には磨りガラスの小窓がついていたから、明かりが灯っていればすぐに起きていることがばれてしまうのだ。
押し入れにこもって襖を閉めてしまえば、もう明かりがもれる心配はない。
ある日、ゲームから照らし出される僕の影の隣に、もうひとつ別の影があることに気がついた。
次第にその影は輪郭を強めて、気づいたときにはもうそれは影ではなく、はっきりとひとりの女の子の姿を浮かびだしていた。
はじめは驚いたけれど、不思議と怖いという気持ちはなかった。
彼女は僕より少し年上で、大きな瞳の上に長い前髪をたらしていた。
僕は胸の鼓動を早めながら「君は?」と聞いた。すると彼女は鈴の音のような澄んだ声で「幽霊」と答えた。
そんなわかりきった返答に、僕の胸は高鳴っていた。
その日から、僕は夜な夜な押入れにこもっては彼女と話をするようになった。
彼女の死んだ理由も聞いた気がするけれど、覚えていない。
きっと僕にとっては話の内容などどうでもよかったのだろう。
ただ彼女の唇の動きに、ころころと変わる表情に、一喜一憂する。そんな子どもであったのだ。
けれどそんな彼女の死というものを、深く理解せざるをえない出来事があった。
ある日いつものように押入れに籠もっていると、突然、顔が半分潰れた状態で彼女は僕の目の前にあらわれた。
なぜ今更その姿で——。
僕が二の句を告げずにいると、彼女は「幽霊は生きている人に自分を恐怖の対象にしてもらえなければ、存在自体が消えていく」と言った。
僕には理解の範疇を超えているが、幽霊には幽霊の理があるのだと知った。
けれど彼女の意図に反して、僕は少しもその姿に恐怖を覚えなかった。
それどころか、彼女のその潰れた顔があまりにも哀しくて、僕は思わず彼女をハグしてしまった。
驚いたのは彼女だ。
青い顔をして逃げると思っていたところを、抱きすくめられたのだから。
僕と彼女は抱き合いながらむせび泣いた。
僕は同情の心で、彼女は生への執着で。
始めて自分の醜い姿を嫌わなかった僕のことを、彼女は好いた。
その好意は何年経っても変わらなかった。
僕も次第に彼女に恋をして、押し入れの奥に夜な夜な身を潜めるようになった。
もうゲームをするためではなく、彼女に会うためだけに逢瀬を重ねた。
影の中に潜む彼女の存在はもはや僕にとってすべてであり、また同時に危うく脆いものでもあった。
彼女という存在がいつか搔き消えてしまうのではないかと僕は怯えた。
怯えるほどに僕は彼女に対して積極的になった。
彼女の肢体は触れようと思えば触れた気になれたし、キスだってした。
僕たちは他の一般的な恋人関係となんら違えることもなく、順調に愛を育んだ。
そうして築いた絆は、ある日一瞬で壊れた。
父の転勤で引っ越すことになったのだ。
僕は彼女に対してあえて何も話さなかった。
引っ越してもまたすぐに会いに来る。そう心に誓ったから大丈夫だ。
わざわざ告げて哀しませる必要はないのだと、無理に自分を納得させた。
なのに、引っ越しを終えた途端に、僕の心の中から彼女の存在が消えた。
今まで霊的な力で僕の心を捉えていたのだろうか。そう考えたくはない。
だから物事に執着しない自分の悪い性格のせいで彼女を忘れてしまったのだと、今は考えている。
突然彼女のことを思い出し、どうしようもなく切ない気持ちで胸がいっぱいになると、今まで思い出すことができなかったことが悔しくて仕方なくなった。
そしてそのまま家を飛び出し、あのとき住んでいた家へ向かって駆けた。
あの家へ、あの押し入れの中へ。
影の中に潜む彼女の所へ。
まだいるだろうか?
きっといるだろう。
あのときと変わらない姿で、もしかすると僕を責めるかもしれない。
それでもいい。変わってしまった僕を、どうか彼女の手で。
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