第16話 天乎帰郷
有頂天な天乎の髪にポツリと雨粒が当たった。何時の間にか、雲が湧き闇彩へと急いでいる。悪戯顔の風も生まれ、陽の気を吹き飛ばす。
ポツリが葉先を揺らすと木立がさざめき、山が振るえた。
無数のポツリの水分を含んで天乎の髪が、地面に向かい伸びて行く。
陽の気と争った陰の気が勝利を収め、子分をまき散らして音高らかに天乎を包み込み、牙を立てた。
子分任せが面倒になった陰の気が、抱えた桶をひっくり返したのだ。
キーンと叫ぶ猿助の赤い鼻が暴れ始めた川波に見え隠れする。天乎は後先の考えもなく川に飛び込んだ。泳げはしない。猿助の後を追って流されるだけだ。
へらへらドンブラ蛇行する川は、陰の気を味方に、下草を飲み込み、木々をへし折り石を転がす。
ちび蝙蝠が鳴きわめき、身のほど知らずに猿助と天乎を追って飛んで来る。
蛇のにょろ助が、血相変えて暴れ川に踊り込む。くねらせた蛇身が天乎の髪を捉える。何時も気弱なにょろ助が、天に向かってその身を立て陰の気に刃向かって行く。怒りに白光した蛇身の
のたうつ川は、にょろ助を産んだ母なる川だ。例え、母親に刃向かっても猿助を抱えた天乎を救わねばならない。
天乎の目に大きな塊が映った。月光を浴びた塊は、少しずつ凹凸を現し、目が光り、口が開くと白い歯が笑った。
「気がついたか? 怪我はないようだが、どこか痛むところはあるか?」
父親のように穏やかな声が問いかける顔の中央で、大きな鼻が揺れた。
(あっ、天狗さまだ。わたしの父上か?)
「いや、わしはお前の父親ではないぞ。わしは木っ葉天狗じゃが、女子の腹を借りて子供を
(むむぅ、わたしの心が読めるのか?)
木っ葉天狗は、その辺の木の葉をむしり、「フー」と音を立てて吹いてみせた。木の葉は自由気ままに舞い上がり赤子となって泣き叫んだ。
「ぐふふふふ、ワハハハハはーぁ」
天乎はみっともなくも大笑いし、目いっぱいに水滴を貯めた。
(この不思議が、父親であれば、どんなに心安らかに‥‥‥)
天乎の気ままな日々が再開された。
すっかり親分気分の天乎の後を猿が蛇が続く。母親に叱られながら、チビの蝙蝠が追いかける。
天狗の相撲場を取り巻く木々もせせらぎも、笑いながら天乎の子分だ。
天が高い。
迷子になっていたハヤが帰ってきた。瘠せてしまったハヤを皆でせっせと世話をした。美しい毛並みを取り戻した馬は、天乎を乗せて(帰ろう、帰ろう)とせがむ。
「あああぁ、どうしても帰るんでござんすか」
猿がのたまう。
天乎が頷くと、蛇が悲しげに首を垂れた。
明け方、天乎は夢を見た。河原で清三郎が呻っている。幼い日、天乎をかばって村の悪童どもに殴られたのだ。打ち砕かれた片足が震えている。
目覚めた天乎は、俄かに清三郎が心配になった。
帰ろう、帰って清三郎を援けなければならない。
「そうだ。お前たちにわたしの心を置いていこう」
二匹は、へぇという顔をして鼻を赤らませた。
心がなければ、傷つくことも血を滴らせることもないだろうと天乎は思った。大事な心は大事な異界の子分に残していこう。天乎を慕い天乎に安らぎを与えてくれた家来へのせめてものお返しだった。
遠く野盗の駒音を聞いたが、ハヤも天乎も恐れることなく、疾走した。ハヤの背に括りつけられるようにして天乎が帰って来た。
事件が起こった翌日の未明であった。
天乎は何も語らず、天乎の為に二度目の大怪我をした清三郎も見舞わなかった。
やがて、右手左足を負傷し、一人前の武士の働きが難しくなった清三郎の元に、十歳にも満たない幼い女子が嫁入った。その噂を聞いても天乎は微動だにせず、大きくなった鼻を少し動かしただけだった。
清三郎を援けなければと、帰ってきたはずだが、異界の子分に心を置いてきたせいか、天乎の心は機能せず、花にも蝶にも無関心だった。
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