第13話 天乎迷子
誰も追ってこなかったが宵闇が追ってくる。清三郎がどうなったかも気になるが、どうしていいのか分からない。
すでに、行く道は天乎の知らない景色の中だ。その道はわずかに登り坂で、すでに広野は何処にもない。鴉が塒に帰るのか、仕切りに鳴きわめくが、その姿を見ることは出来なかった。
ハヤは速足も並み足も忘れて、トボトボとふらついている。
キキッと鳴き声がして梢の上に小犬ほどの黒い塊が馬上の天乎に向かい襲いかかって来た。
気の弱いハヤは、疲れを忘れ、脚をからませ走り出す。
天乎は、思わずのけ反ったが、ハヤの頭上から大きな赤い鼻が迫ってくる。
(これは何? この赤い鼻はわたし自身か?)
鼻の奥に二つの黒い光が輝き、天乎の瞳を射すくめてくる。
「キキキキー」と吠える主は、長い赤鼻を自慢げに揺する生き物だ。
どうやら野猿のようだが、天乎には良く分からない。
目前の敵を確信した天乎は右手の鞭を振るった。猿は歯を剥き威嚇するも鞭の先に当たり馬上から飛び跳ねた。
ハヤは、夢中で走っている。天乎が綱を絞っても、止めることは出来なかった。
雑木林を駆け抜け、登り、また下り、己の道を失った。
やがて、ハヤがもう走れぬと云わんばかりに歩みを止めた。
疲れ果てた耳にせせらぎの音が聞こえて来た。
水音は喉の渇を気付かせてくれる。それなら、ハヤは尚更渇きが激しいはず。
道すら失ってしまった天乎とハヤは、気を落ちつけて水の在り処を探った。ハヤが速足で進み出す。天乎は、身をかがめワサワサと左右から意地悪に伸びる枝葉を避け潜り抜けた。
一人と一頭の先に、崖を伝って水飛沫がほとばしる。
ハヤは、飛沫に飛び込むように足を突っ込んだ。ハヤの背を降りた天乎も両手にすくった水を顔いっぱいに振りかけ、髪を乱して生きかえる。ささやかな憩いを手に入れた主従は、飛沫が飛び交う場所で、だらりと弛緩した。
またも生き物の気配がするが、天乎は、ウトウトと眠りの入り口だ。ハヤが気弱に嘶き、後退りつつ、天乎を蹴飛ばした。天乎がウーンと唸って目覚めた時には、ハヤの姿はなかった。
「ハヤ、ハヤァ、わたしを置いて行かないで」
叫んだが、もはや遅く、自分の声が遠のくのをボンヤリ聞いた。
「シューウゥ」という呼吸音に振り向けば、大きな蛇が鎌首をもたげている。ズルリと尻で後退するが、その分、蛇が身を伸ばす。ズルリ、シューウ、ズルリ、シューウと音だけの世界の中で天乎の気持ちはひしゃげていく。
赤い舌がチロチロする蛇に目を止めることが出来ない天乎だが、その天乎の背中が倒木に阻まれ止まった。
「テンコー」と呼ばれたような気がして目を向ければ、大蛇の鼻がグイと伸びた。蛇は動かぬままに、その鼻だけが伸びてくる。幼い頃、清三郎が怖いコワイと天乎の後ろに隠れるので、蛇を掴んで振り回したのも忘れて、天乎の意識はフラリと揺れて、目の中に入り込んだ闇が広がっていく。
天乎の内にも外にも闇が満ちていた。梟の鳴き声が闇を小さく揺らし、雲に隠れていた月光を呼び込んでいる。
天乎の頬に水滴がぽつりと落ちたと思う間もなく、バシャと水がかけられた。慌てて飛び起きた天乎の目に赤い鼻がダラリ。覗き込んでいるのは大きな鼻の猿だった。天乎に笑いかけ両手を振っている。そこから水滴が飛び散っている。
「お前が、水をかけてくれたのか?」
猿は嬉しそうに、歯をむき出した。
「ありがとう。大きな蛇がいたのだ。怖かった」
すると猿は、首を左右に振り、何やら否定している様子だ。
「キーッ」
と鳴いた猿の後ろから蛇が遠慮勝ちに覗いている。
思わず身を反らした天乎だが、生き物らは悪ガキよりも悪意がない。
「そなたらは、わたしに
猿と蛇は、しばし小首を傾げ、やがて「そうだ」というように、安堵の気を送って来た。
じっと蛇の顔を見つめていると不思議なことに気付く。その鼻が赤く盛り上がっているのだ。
「お前は、天狗蛇なのか?」
蛇は、恥ずかしげに首を曲げて身をよじる。
幼い頃でしかと覚えていないが、清三郎が余りに怖がるので、天乎は蛇の尻尾を持ち、放り投げた。だが、岩には当たらぬように川の流れに放ったのだ。これなら死なないという小さな天乎の小さな心根だ。
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