第10話 清三郎危難
そんな川辺を隣村の悪餓鬼が四~五人ほど騒いでいる。
「ネ、ネェ」
悲しげな叫び声が響き渡る。
天乎が裾を蹴って駆け出した。清三郎が後を追う。
「それは、わたしのネコよ。返して」
勝気な天乎の声が河原に響く。
「うるせえ、女子など向うへ行け」
そこへ清三郎が追いついて
「弱い者苛めはいかんぞ」
「うるせえ、うるせえ、俺たちの獲物だ。返すもんか」
「こんな小さな唐猫を何とする? 食うのか?」
清三郎の問いに、言葉を失った少年たちは、しばし立ち止まる。
「やっちゃえー」
の掛け声の元、天乎と清三郎を取り囲んだ。
少年に放り出された子猫が、恐怖の奇声を上げる。
その後は、子供と一匹が入り乱れて河原を下り、川の中になだれ込んだ。
清三郎の頭は、正面の悪童の胸の高さだ。
体格は二倍に見え、その実、体重は三倍や四倍はあったろう。
ぐんと迫ってきた年上を、清三郎はその頭で受け止めた。
押した。動かない。押して、押して、笑われた。
笑顔の年上悪童が、覗き込んだその眉間に、清三郎の頭が沈んだ。
ぐにゃりと肉の音。
図らずも、相手は仰け反り倒れた。
天乎は、対峙する悪童たちの外側にいた。
濡れた小袖の前を両手で握り、茶褐色の髪はべっとりと頬に張り付き、惨めに震えていた。
(帰れ、早く家に帰れ)
清三郎の叫びは、声にならず、荒い息を吐き散らしただけだ。
雑木の丸太が飛んだ。一本、二本、三本。
丸太は「やっちゃえー」と叫び、一定の調子で、おっかなびっくり清三郎を殴打していたが、その調子が乱れた。心を失った丸太は乱打となって清三郎を襲った。
夏空の高みを目指す真っ白い雲の峰が灰色に変わり、やがて黒く落ちてきた。
濡れねずみで帰った天乎に、外出禁止令が出た。
それでも天乎は、元気に育っていく。
同じ年頃の誰よりも背が高く、立派な体格をしている。
その目はクリクリと大きく輝き、立派な鼻が顔の真ん中に座り、大きな口は確りと結ばれている。
生まれた時には、なかった髪もホワホワと生えてクルクルと赤茶け、近隣では見かけない相貌ながら、見ようによっては愛くるしい。
何と云ってもまだ幼女である。大きな目で笑いかけられれば、その大きな鼻も気にならないが……
「天乎と遊ぶのおもしろい」「おれの嫁さまだ」と、殴られても遊んでいた清三郎もあの川原での決闘以来、来なくなった。
外を遊び回っているのは、御家人、非御家人に拘わらず領地持ちの子弟や大百姓の子らである。
貧しい下人や農民の子は、小さい頃より家を助け、喧嘩しながら遊ぶなど憧れとも云えた。
どちらにしても、豊かな家の子もある程度の年齢になれば、男児は寺などに通い、或いは家内で勉学を武道を始めるし、女子も屋敷内で誰かから躾や手習いを習い始めるものだ。
清三郎も一家の嫡男として、槍だ刀だ弓だと追い回される毎日が始まったはずだ。
天乎も母親の強い意志によって屋敷内に留まる時間が増え、立ち居振る舞いから言葉使いまで、事細かく叱声される日々の中にいる。墨をすれば、こぼし、長袴をはけば転んで騒ぎ、水穂の声は益々甲高くなっていく。
そんな騒ぎも何時しか収まり、奥の部屋からは、話声も笑い声もしなくなってしまった。
四郎は、愛娘天乎の笑い声が殊のほか好きであったが、静まり返った屋敷の庭で今日も変わらず豆を選定している。家人や雇いの者に田畑を任せていたが、四郎は豆をいらうのが好きであった。指先で豆を摘み、転がし、摘み転がししていると、心が落ち着いてくるのだ。
幼い頃、空腹を抱えて稲田家の土間の隅で豆をいらっていた頃、あまりの空腹にはじいた虫食い豆を思わず口に入れて噛みしめた。
ゆっくりゆっくり噛み砕いていけば、ふわりと甘味が広がり、小さな幸せを味わえた。
だから、今でも四郎は、豆をいらうのが好きで種豆の選別は人任せにせず、自ら行っている。そんな夫四郎を妻水穂は、横目にもかけず無表情で通り過ぎる。
小さい頃には、四郎目がけて飛んで来て豆をはね飛ばしていた天乎も、近頃はぞろりと着こんだ小袖に身を縮め父の背中を追わなくなった。
それでも天乎は成長していく。その鼻も成長していく。
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