第9話 唐猫はネェと鳴く

 長閑のどかな田園の中で、天乎は天真爛漫だ。なぜ、天乎と呼ばれるのかも知らない。

 鏡を隠し、磨かなくなった母親の気持ちを理解するには、おさなすぎる。

 長じるに従い、水穂は鴇乃の粗忽を理解していた。それでも鴇乃は育ててくれた母と云えるかけがえのない存在だった。

 その鴇乃を、水穂は老衰を理由に郷へ帰した。

 天乎の目の前で鏡を磨いたからだ。それは鴇乃には理解できない水穂姫の悲しみだった。


 母としての教育が始まったが、水穂の体力は続かない。

 床に臥せ勝ちになった母の枕辺で、天乎が神妙に筆を持つ。

 しばし後、緊張の緩んだ天乎の右手が宙を泳ぎ、水穂の顔に墨が飛んだ。


 教育係として新しい乳母がやって来た。

 かなり年老いた乳母だが、武家の子弟を何人も育てた経験があるという。

 もう腰が曲がっているが、眼光するどく、笑顔が怖い。

 手練れの老婆は、家内の力を見定める能力も長けていて、水穂が一番、天乎が二番、四郎は三番に滑り込んだが、ほぼ下男と同等の扱いだ。

 天乎との折り合いが良い訳はなく、四郎の屋敷は、ギク、シャクと歪んでいく。

 ふつふつと大きくなっていく天乎の不満が、その鼻に蓄積されていく。

 不満は、鼻だけに留まらない。その髪をさらに鬱屈させ、その胸を小さく膨らませる。

 九歳とは思えない天乎の発育であった。


 その年、天乎は九つ、清三郎は十歳の初夏。空梅雨で日照りが続いた。

 このままでは、秋の刈り入れが心配された。

 村を突っ切って豊かに流れる川も日に日にその水量を減らし、田圃への取り入れも危ぶまれた。

 天乎は、激しい乳母の叱責に飛び上がり、裏口から飛んだ。

「なりませぬ。何処へ行くのですか」

 そんな声は、天乎を押し出す助けにしかならない。

 誰からも見捨てられた蝉の声が降る川原。 向こう岸に渡るのに便利な自然の飛び石さえ、熱く乾いた昼下がりであった。 乳母に説教された天乎が、一人髪を乱して川中の石を飛ぶ。 胸に抱えたもやもや玉を右に左に放り出し、ぽんぽんと身軽になる。 右足が迷った。少女も行き先を失い、川面のキララにおいでと呼ばれて飛び込む。 溺れるような川ではない。むしろ気持ちよく、胸の不満玉はすべて無くなった。 晴れ上がった空を見上げた天乎の耳が、珍しい音を拾った。

「ネ、ネ、ネェ」

 不思議な鳴き声に天乎の目は大きくギョロ目になる。

「天乎、てんこ、どうしたんだ、天乎」

 川縁を慣れ親しんだ声が駆けて来る。

「てへぇー」

 天乎は、ちょっと照れ笑いをこぼして立ち上がった。

「何だよ? びしょ濡れじゃないか」

 清三郎の目が濡れそぼった天乎の胸に止まる。その小さな隆起に、少年の内から恥ずかしさが駆け上がり、喉元に頬骨に瞳の中に小さく弾けた。

 清三郎の襟の合わせ目から、小さな動物が覗いている。

「まあ、何、何なの? そのチビさんは?」

 天乎の声が翻り、笑顔が溢れる。

「ネっと鳴いたろう。だから、ネ子だ。宋からの到来ものだぞ」

「えっ、ねこと云うの? かわいい」

 清三郎は、胸元から猫の首根っこを摘みあげ、天乎の胸元に押しつけた。

 天乎は、こわごわ受け取り頬を緩める。

「可愛いだろう。一月ほど前に、六浦の湊に行ったのだ。その時、俺の胸元に飛び込んで来たのでな、放り出すのも可哀想だから、連れ帰ったのだ」

 清三郎のおどけた物云いに、天乎は笑った。

 六浦に行ったと云うのは、清三郎の見栄で、子猫は六浦からの土産物だ。

 天乎の誕生に幾らか関わった唐猫は、誰かの手で武蔵の国に運ばれ、今、天乎の胸に収まっている。もちろん同じ猫ではないし、子猫に何の思惑もないが、因縁を感じるではないか。


 すっかり気分を晴らした天乎の手は、猫の頭を撫ぜ続けている。

 欲しい。胸に抱いた猫を。

 思い切り抱きしめてしまい、唐猫が逃げ出した。

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