第8話 水穂の嫁入
一月ほど後、越衛門一行が無事将軍家の下文を賜り、晴れて御家人となって戻ってきた。一同打ち揃い、故郷の武蔵へ向かっている。
鴇乃は、事が露見するのを恐れ、びくびくと首をすくめているが、水穂は髪をなびかせ涼しげな顔に曇りもない。ただ一つ、残念なのは、せっかく手に入れた子猫が逃亡してしまったことだ。下男に探させたが、見つからない。水穂が人知れず失ってしまったものと同じように二度と戻っては来なかった。
(早く、姫さまを嫁がせてしまおう。わらわも一緒にお伴するのだから、殿さまの目を恐れることはなくなるのだ。それがよい、それがよい)
鴇乃の思惑を乗せて、越衛門一行は無事に屋敷に帰りついた。
戻ってしまえば、水穂が騒がない今、何もなかったことに出来ると鴇乃も一安心。
水穂の婿どの探しを急いだが、あちらはお顔が鬼瓦のようだ。こちらは、お家の出が悪いなどと云っている間に、半年ほど過ぎ、水穂の腹が膨らんできた。本人も気づかぬほどの膨らみだが、さすがに鴇乃は仰天した。
「姫さま、御気分が悪いことはございませんか」
鴇乃は、怖々聞いてみる。
「いいえ、近頃、食が進み少し太ったかもしれないわ。お昼寝もしているのに、夜もよく眠れます。不思議なほどに気分の良い毎日です」
はじける笑顔だ。
「鴇乃、お腹が空いたわ。何かないかしら」
年の割にあどけない笑顔に鴇乃の眉が上がる。
「はい、はい、中食にいたしましょう。鴇乃の分も差し上げますよ」
鴇乃は、朝晩の食も細っているのに、おやつの中食さえも食べる気がしないのだった。
殿さまに知れる前に、姫さまに妊娠の何たるかを理解してもらわなくてはならない。
あと
ええい、云ってしまえ。
云っても云わなくても赤子は生まれてくるのだからと
「姫さま、姫さまは少しずつお太りになってきたのは気付いていらっしゃるのですよね」
水穂は、ふんふんと頷きながら二つ目の粽に手を伸ばす。
「お腹の周りが膨らんできたことも気付いていらっしゃいますか」
口いっぱいに粽を含み言葉がないまま、ふんふんと頷く水穂に鴇乃は目眩を覚えた。
気を取り直した鴇乃は
「あと、三月か四月たちますと、お腹の中から赤さまが生まれます。分かりますか」
水穂は口の中の物を飲みこむと、じっと鴇乃を見た。
「お腹の赤さまの父親は誰だか分かりますか」
鴇乃の声が、ふるふると水穂の周りを飛び回る。
「鴇乃、お腹の赤ちゃんに父上はいるのですか?」
膝に置いた両手をギュと握りしめ、目をむいた。
「はぁ、それは、それは誰にも父親はいるものです。その、あの、姫の赤さまにも当然父上がいると……」
「
「い、いいえ、幾ら望まれてもお子のない方がいらっしゃいますよね。望んだだけでは、赤さまは生まれませぬ」
「そうなの? では妾のお腹の赤ちゃんは誰の子なのでしょうか?」
鴇乃は、わなわなと震える身体を持て余し、その目に涙をにじませた。
しばらく嗚咽をこらえた鴇乃は、意を決して口をひらいた。
「ひーさま、半年ほど前に、殿さまと共に六浦の湊を見に行きましたね。その時、気を失われる出来事がありました。覚えていらっしゃいますか。あれが、あの出来事が、赤さまが出来る原因でございます。誰が部屋に入ってきたか、覚えておいでですか。部屋に来て姫を抱きしめた人が赤さまの父親でございます。どんな男でしたか、侍ですか、町人ですか、それとも……」
言葉が喉につかえ、喘ぐ鴇乃を見つめ、水穂はじっと考えている。
しばしの後
「覚えていません。ただ、少しお鼻が大きかったような、赤いお鼻だったような。そう、天狗さまのようなお人でした」
鴇乃は、六浦の湊町を思い起こした。赤い髪の、茶色の髪の、白い肌の、薄黒い肌の、異装の男がウロウロしていた。
目眩を覚えた鴇乃は二日、三日と床についた。
赤い髪が躍った、白い手が伸びた、立派な鼻がゆんと迫れば、
折しも寝間を覗いた越衛門は、飛びのき、縁の外に転がった。
「なな、何とした? 鴇乃」
何時になく優しい声音の主どのは、庭につくばったままだ。
「具合はどうじゃ」
鴇乃は、寝乱れた髪をかき上げ縁に身を乗り出した。そして声を励まし告げた。
水穂の妊娠のあらましを。
越衛門の大声が響き渡るのに、しばしの時を要した。
「天狗じゃと、天狗の子だと云うのか。鴇乃、お、お前が付いていながら、この不祥事をどう処理するつもりじゃ」
「は、はい。お生まれになったら、密かに里子に出しましょう。いかがでございましょう」
「ふんーん、分かった。お前に任せる故、速やかに事を運べ、これ以上のしくじりは許さぬ。覚悟して事にあたれ」
「は、はい、はい、お許しを」
しかし、従来の粗忽者鴇乃の迂闊で里子の件は水穂の知ることとなる。
「妾が、赤ちゃんを育てます。里子には出しません」
「ならん、ならん。水穂、お前は何も分かっていない。子供には父親が必要なのだ。そうだ、わしが水穂の婿を探そう。自分の傍で赤子を育てたければ、嫁に行くのだ」
「嫁に行く…… 嫁に行けばよいのですか」
「そうじゃ、うーん、誰がよいかのう……」
腕組みする越衛門に、水穂はにっこり微笑んだ。
「四郎に、赤ちゃんの父上になってもらいます」
「四郎? 誰じゃ、その四郎とは?」
「四郎です。新田の開発をしている四郎です」
「ええっ、馬鹿を申すな。下男ではないか」
「四郎は、立派な侍の子だと聞いたことがあります」
「いやいや、心配するな。他にお前にふさわしい男がおろう」
「四郎がよいのです。妾の赤ちゃんは天狗の子ですから、その父親は誰でもよいというわけにはいきません。優しく優しく育ててくれる親でなければなりません」
「天狗、てんぐと、ほんにその子は天狗の子なのか……」
生まれる前から、四郎に嫁ぐ前から村の人々は、水穂姫の赤さまは天狗の子と知っていた。
産み月を迎えた水穂は、父親の意思を押し切り、四郎の元に嫁いだのだった。
もちろん、鴇乃も一緒に。
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