第7話 水穂陶酔

 中庭を望む部屋の廊下ちかくに座した水穂の膝には、小さな生き物が規則正しい寝息を立てている。

 昨日、湊に面した路上で、袋を抱えた男が近づいてきた。後ろにいた下男が前に出る。「姫さまに珍しい物をお目にかけますよ」と笑顔を作った男は、袋の口を開けて見せた。「にゃお」と見上げる子猫。宋から連れて来られた唐猫が生んだのだろう。そちらにそちらにと男は、水穂を物陰に押しやった。「お安くしておきます。六浦の土産に今一番のお勧めでございますよ」と子猫を抱き上げた男は、水穂の胸に押し付ける。「にゃお、みゃお」と縋りつく猫に、水穂の目が輝き出した。

「幾らじゃ」

 鴇乃も興味津々だ。

 直ぐには話がつかない。鴇乃が値切り、男がかぶりをふる。

 先ほど買った髪留より安いのにと水穂は笑いを堪えて、唐猫の小さな頭を撫でる。うずうずと動く子猫を抱き直す。猫売りと鴇乃は、まだ高い安いと云い合っていた。

 宋から輸入される物品は、唐物と呼ばれ珍重された。彼の地は、すでに唐の国名を捨て、その領域さえ大きく変わっているが、彼の地から波濤を超えてやってくる品はすべて唐物なのだ。香料・唐織物・薬品・書籍・陶磁器・文房具・絵画と何でも商われ、貿易商が金持ちになって行くのは、何時の世でも変わらないようだ。猫は貴重な唐物として渡来したのではなく、貴重な貿易品を鼠から守る役目を負って賦役をこなした。そんな中、やっと着いた湊で逃げ出した猫もあったろう。日本古来の野生の猫と交わり可愛い子猫がポコポコ出現する。そんな一匹が、水穂の胸で背を伸ばし「ねーぇ、ねぇ」と鳴く。真っ黒な顔の中に双眸が金色に煌く。顎の下から足元にかけては、目が覚めるような白い猫だ。水穂が気に入らないはずがない。


 あるか無きかの潮の香りが宿の中庭の草花を穏やかに揺らす。

 子猫の寝息に誘われて、水穂の瞼がゆるゆると下がってくる。長旅の疲れが出る頃で、若い娘も午睡の気持ち良さにとろとろだ。

 潮の香にかすかな異臭が混じるが、目覚めるほどの変異ではないのか若い身体は小さな揺れを繰り返している。水穂は夢の入り口にいる。鼻先に記憶にない匂いが迫るが、決して嫌な匂いではない。背後から大きな腕が伸びて来て水穂の身体にふわりと巻き付いた。さすがに水穂より先に驚いた身体が縮こまるが、脳への伝達が遅れている。その間隙をぬって、邪気のないその腕は優しく髪を撫でさすり、異臭の元とおぼしき温かい息を弾ませて水穂の身体と心を蕩かしていく。

 宋から輸入された催眠作用のある薬草でも焚いているのか、もとより持ち合わせた香りが人を惑わすのか分からない。

 何時の間にか、子猫は何処かへ行ってしまったようだ。

 髪を撫でられ、猫になった水穂から恐怖を呼び込む意識が消え、夢の扉を開けたまま、めまいの波に襲われた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、うねりは尽きることなく水穂を襲い、知らない心地へ放り出されて息もつけない。やがて、そこは西方の浄土か、水穂は揺蕩たゆたって落ちて行く。


「ひ、ひーさま、ひめさま」

 鴇乃の声で目覚めた水穂は、着物を着崩し髪を乱して奥の部屋の中に横たわっていた。

 老練な鴇乃に、その状況が分からぬはずはない。

「ああ、あぁ、誰が、だれが、このような無体を……」

 泣きださんばかりの鴇乃であったが、水穂は事の次第がしかと分かってはいないのだ。

「おいたわしや。ひーさま、ああ、あ……」

 振るえる手で水穂の乱れを繕った鴇乃だが、すかさず自分の立場に思い至った。

(こんな惨事が殿さまに知れれば、きっとお役を御免になってしまう。なんとかせねば、なんとか)

 水穂は、ふすまの中ですやすやと眠っている。

(ここは思案のしどころじゃ。姫はあまりの驚きに、事の次第を理解していない。このまま、このまま誰にも知らせぬようにすれば良いのだ)

 鴇乃は、保身のために、常より勤勉となった。薬を手に入れ間もなく戻った下男に、小銭を与え、外遊びの時間を与え、宿から追い払った。水穂の身の回りを繕う時間を確保したのだ。

 その後も水穂の秘密を守るため素知らぬ顔で六浦の生活を楽しんでみせた。

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