第6話 水穂の青春
天乎の母、水穂十五歳の春であった。
「父上、水穂もお連れ下さいませ。水穂は海が見とうございます」
「水穂、わがままを申すでない。こたびの鎌倉行きは、物見遊山ではない。我が家を御家人として認めていただく大切なお願いの旅じゃ。娘を連れで鎌倉入りなど出来はせぬ」
「はい、父上、水穂は鎌倉幕府にお連れ願いたいと申しているのではありませぬ。何でも鎌倉には、
「ふん、誰じゃ。水穂にそんな智恵をつけたのは、どうせまた鴇乃の仕業であろう」
「水穂と鴇乃は、六浦の湊で待っております。父上さまは、御家人願いに幕府にお出かけ下さいませ」
「ふんふん、困ったもんじゃ。それでは一緒に出かけるとするか」
それほど困った顔でもなく、
「嬉しい。父上さま」
水穂は、にっこりと微笑み、父の顔を覗き込んだ。
稲田越衛門は、娘の水穂に甘い父親であった。
数々の戦で、留守がちの上、母親が早くに亡くなり、いまいち立派とはいえない乳母に任せるしかなかった。
九州・西国では、まだまだ非御家人は多くいるが、東国を支える武蔵で非御家人は少なくなっている。越衛門は、武蔵国の丘陵を私力で開発した侍であったから、非御家人だ。所有地が大きくなってくると、有象無象に狙われる。そこで越衛門は、幕府に安堵(承認)してもらおうと鎌倉行きを決めたのである。
隣人の御家人本田二郎清常に、初参には
一行は天気に恵まれ鎌倉街道上道をゆらゆらと上ったが、途中から遠回りを承知で中道を横切り、下道に至ると南下した。
鎌倉幕府と各地を結んだ鎌倉街道は、蜘蛛の巣のごとく伸びていた。もちろん、京都へ向かう東海道が古くからあり、物流の主環道路だったが、鎌倉時代にはその整備も進み、未発達であった北へ向かう街道が整備されていった。なかでも、主な街道が「上道」「中道」「下道」の三本であった。物流ももちろんだが、「いざ、鎌倉」の合戦の時、駆けつける軍事道路である。
馬に揺られての旅に疲れを覚えた頃、潮の香が水穂を迎えた。
六浦の湊を見はらす丘の上に越衛門の一行は立っていた。憧れの海を遠望し、水穂の疲れが飛んでいく。異国からの大きな船も見える。
乳母は「ひいさま」と呼んでくれるが、山深い里の田舎娘でしかない水穂だ。いずれ、それも早い時期に父上の決めた男の妻となり、知らいない男に指図される今よりも不自由な生活を始めるのだ。父は水穂に甘いが、このまま生家で気ままに暮らすことは許されないだろう。
そう云われて育ったから、そんなものだと思っているが、胸の奥深くに住む小さな塊が吐息を吐く。それが何だか分からないが、何かが違うと思う十五の春だ。
やがて、稲田越衛門一行は鎌倉中へ向けて出発した。六浦の宿には、水穂と鴇乃、そして腕に覚えのある一人の下男が残った。
緑深い武蔵の国しか知らない水穂にとって、湊町は、不思議な殷賑を極めていた。まるで
田園の下肥の匂いの中で育った水穂が、初めて嗅ぐ異国の匂いは、美味しそうでもあり、危険そうでもあった。道行く人々も、同じ国の者とは思われず、若い娘と行違えば、思わず見とれて振り返った。
鴇乃は、久しぶりの旅の空が嬉しくてならぬといった風情で、水穂を追い越す勢いで寺社へ参り、異国船を眺め、海の幸を堪能しては浮かれていた。
その日、鴇乃は食べすぎたのであろうか、腹を下して厠へ通い詰めていた。
鴇乃がそんな状態なので、水穂も出かけることなく、宿の離れでゆったりと寛いでいた。
下男は、鴇乃の薬を求めに出かけている。
鴇乃は、厠から戻ってこない。
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