第5話 鏡よ、鏡、鏡さん

 四郎は天乎を背負い、帰り道を歩いている。夕日が二人の影を優しく追ってくる。

 背中の温かさは、幼い日の四郎と水穂を思い出させる温もりで、同じ匂いがした。

 家に辿り着いた四郎は、天乎を家に入れてから井戸端で水を飲むと半裸になって、水を浴びた。箒の柄が当たった左肩の傷がピリピリと痛むが、この体たらくを妻にも娘にも見せたくはない。うす暗くなった裏戸から、そっと屋内を窺い土間に足を入れた。

「旦那さま、どちらへお出かけか‥‥‥」

 不審げな水穂の目が、四郎の乱れた髷や泥だらけの着物を見つめている。

「お前さま、その傷は‥‥‥」

「いやいや、大したことはない。そこで、ちょいと滑ったのだ」

「嘘じゃ。清三郎の婆に殴られたのじゃ」

 天乎は、髪を振り乱しまま云い放す。まだ着替えもしていない。

 何時もは、寡黙で控え目な水穂が居住まいを正し、四郎に向った。

「お前さま、それではいけません。それでは穂那美(天乎)を一人前に育て、良き殿御の元に嫁がせることが叶いません」

「すまん、すまん。きっと天乎を幸せにする男を探して見せる」

「いいえ、いいえ。出来るものですか。そのように気の弱いことでは、近所の噂から穂那美を守ることすら出来ません。それから、『天乎』と呼ぶのはお止め下さい」

「いやいや、きっときっと‥‥‥」

 何時もになく厳しい声音の妻に、四郎はうろたえ真っ当な返答もままならない。

「これからは、穂那美(天乎)を外遊びさせず、家の中で武家の姫として育てます」

「いやいやいや、それは可哀想だ。天乎は外で暴れ回るのが殊のほか好きなのじゃ」

「それがいけないと云っているのです。わらわが、体調優れぬ故に、穂那美のことを余りにもお前さまに任せてしまいました。これからは、妾が穂那美の躾をいたします。よろしいですね」

「それほどに、大げさに考えなくとも良いではないか。少しずつ少しずつ、水穂どのも文字など歌など教えていけば良いが、まだまだ幼い天乎ゆえ、外遊びも身体のためには必要なことじゃで、外で遊ばしてやってくれ」

 父と母がこんなに長く話をするのは聞いたことがない。

 それは、天乎と清三郎が喧嘩をする時の勢いで、天乎の気持ちを揺すぶってくる。

 何だか悲しくもあり、嬉しくもある。はっきりとは分からない。分からないが、自分が愛されていることは、何となく感じるのであった。

 天乎は、早く両親の云い争いが収まり、夕餉の膳に付きたいと思っている。

 お腹が空いた。それよりも、早く早くカカに、鏡を借りたいのだ。

 清三郎の婆が云っていた。

「鏡を見ろ」と云う言葉が天乎の頭の中で飛び跳ねている。

 鏡よ、鏡、鏡さん。

 天乎には、鏡にまつわるささやかな記憶がある。

 カカの部屋でカカの鏡を両手で支え、覗きこんでいた時、乳母の鴇乃が顔を覗かせた。

「天乎さま、鏡は重くて危のうございますよ。ささ、婆にその鏡を……」と云って取り上げられた。

「かかみは、何をするの‥‥‥」

「鏡は、お顔を映すのですよ。ほれ、こうして‥‥‥ おやおや、この鏡は映りませんねえ。曇ってしまっておりますねぇ。しばらく、しばらばくお待ちあれ‥‥‥」

 母水穂の鏡は、なかなかの設えであった。背面に唐草を施した円鏡で、唐鏡と云う触れ込みだ。本物かどうか水穂は知らなかったが、大好きな父上から贈られた大切で貴重な鏡だった。

 鴇乃は、どこやらから絹の布切れを取り出し鏡の表面を磨き始めた。天乎は、鴇乃の手先を覗きこんでいた。

 するとカカの金切り声が響いた。

「鴇乃、何をしている」

「あっ、ひいさま。この鏡が曇っておりますので、少し磨いてみようかと‥‥‥」

 天乎の記憶はそこまでで、あとの記憶はない。

 いつからか、鴇乃の姿が屋敷から消えたが、何時の事だか分からない。

 水穂は、母とも慕った乳母を老境なればと郷へ帰したのだった。

 天乎の前で、鏡を磨くなど許されることではなかった。生まれ落ちた時からその異相に心が陰る水穂だったが、お包みで確り包み、見ないふりをしていた。それでも大きな瞳で微笑まれると思わず微笑みを返した。胸の中の固まりが少しずつ温まり、溶けていく。

 しかし、長ずるに従い元気に明るく飛び回る天乎を世間に隠しおおせるものではなかった。

 その立派な鼻を見ないことにして、クルクル自由気ままな猫毛の髪にゆっくりと櫛を入れていくと、その目を閉じて甘えかかる幼女を邪険に突き放すことは出来ない母だった。

 それでも、我が物顔の鼻を鏡に映し出させることは、避けたかった。

 何時の頃からか、水穂は鏡を磨くのを止めた。水穂自身も鏡に映らなくても良いと思った。

 何時かは、天乎がその鼻を自覚する時がくるであろうが、少しでも先に延ばしたいと思う母心だ。その気持ちを逆なですするような鴇乃の鏡磨きだ。

 その心無い行為は許せなかった。何につけても、粗忽者の乳母だった。


 そもそも、鴇乃には水穂が幼い頃より問題多き乳母であった。水穂の養育係として都務めの経験ありという華やかな経歴で出仕したが、その実、都好みの派手者で教養のほどは左程ではなく、幼い姫君をしばしば置き去りにして殿御の後を追ったりしたものだ。

 そして、あの忌まわしい事件が起きた。

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