第4話 天乎爛漫
清三郎が泣く度に、その父親に謝らなければならないのは苦痛である。
少年がもう天乎とは遊ばないと宣言してくれれば、気が楽になると思いつつ、開かれたままの門をくぐった。
その頃には、清三郎の左目は見事に腫れあがり頬も歪んで見える。
二人が、門をくぐって間もなく、小さな天乎が門前に現れ、そっと門の内を窺った。
後をつけてきたのだ。幼女にしては大胆な行動力だ。
老女の甲高い声が響き渡る。由緒ある御家人の家柄という誇りが老女の声を更に高くする。
「黙れ、黙れ。成敗してくれる。そこへなおれ」
四郎は、ため息を隠して、膝を付いた。
「どうぞ、お許し下さいませ」
四郎は、下男の生活が身につき、膝を折ることには慣れている。これで、事が収まれば何ほどのこともない。そんな気持ちだ。
その頭を
「とと、とと。大事ないか」
あわてて振り向く四郎に天乎が駆け寄りすがりつく。そこへ箒が振り下ろされ、またあわてて振り上げられた箒の先が天乎のクルクルと自由を謳歌する頭髪を巻き込んだ。
天乎は髪を巻き上げられ、そのまま空へ飛んだ。その左手には、老女の箒が移動している。
天乎は、見た。
清三郎の家の庭から天乎を見上げる人々を。大きく目を見開き、ついでに口も開けている。ふふっと笑った天乎の目は、屋根の遥か向こうに広がる景色を捉える。緑の野面が輝き、川の流れがニョロニョロ蛇の親分顔できらめいている。
天乎の腹のあたりをふわりと支える物がある。
見える者には観える虚空を飛翔する天の使い、陽の気だ。
その陽の気の、子分の陽子が幾千幾万、押し合い圧し合い、押しくら饅頭で天乎をさらなる高みに押し上げる。
そこには、空の切れ目が口を開け、光の輪から大きな赤い鼻がユンっと伸びて天乎の頭をホイと小突いた。
天空に遊んでいた天乎の身体は、スイっと落下した。
金茶の髪を振り乱したまま、左手の箒が老女めがけて打ち下ろされたが、天乎の意思ではない。
「ひぇえ、恐ろしや、恐ろしや。天狗じゃ、尼天狗じゃ。お助け、お助け下されぇー」
老女は清三郎の乳母さまか。腰をぬかしまま庭を這っていく。
箒が地面に振り下ろされ、それを支えに天乎は目を輝かせたまま、ふわりと尻もちをついた。
「天乎、どうしたのだ。家に帰ったんじゃないのか」
四郎より早く、清三郎が叫ぶ。その清三郎に向い、天乎は立ち上がり、云い放す。
「清三郎が悪いのだと云え。天乎に殴られたのは、自分が悪いと云え」
家の土間口からまだ若い女が走り出て来る。行かず後家の伯母佐江だ。
「なんじゃ、この女子は、小さいうちから偉そうに、お前が我が家の大事な嫡男をなぐったのだろう。謝れ謝れ」
「天乎は悪くない。清三郎が悪いのじゃ。天乎は謝らぬ」
「ふん、なんと生意気な。清三郎の何が悪いのか、云ってみろ。さあ、悪い理由を云うてみろ」
佐江は、薄笑いを浮かべている。
「それは、それは、うーん‥‥‥ 天乎が、天乎が、天狗の子だと云うたのじゃ」
云いづらそうではあったが、負けずに云い返す天乎に向い、佐江はカラカラと笑った。
「その通りではないか。お前は天狗の子じゃ。お前はまだ鏡を持っていないのじゃな。家に帰って、母者に鏡を見せてもらえ。鏡の中に天狗の子がおろう」
立ち上がった四郎が天乎を後ろ手に隠す。
「佐江どの、それはあまりの云いよう。幼い女子に云う言葉か」
「何の、本当の話でござろう」
にらみ合った二人の耳に馬蹄の音が近づいてくる。すると女は心細げな顔をつくり金切り声を上げた。
「
馬を下りた
四郎は天乎を胸の中にかばい、思わず目をつぶった。
天乎は、父の肩先から顔をのぞかせ男を見つめている。しかし、その鞭が打ちすえたのは、庭の地面であった。小さな土煙が上がる。
「娘御を連れて、早く家にお帰りめされ」
と落ち着いた声で云い放った。
男は天乎の出生の秘密を知りうる御家人
水穂の家より由緒ある御家人とはいえ、その財力はじりじりと衰退し、出来るだけ近隣との争い事を避けたい本田道珍だ。
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