第2話 ずんずん育つ

 奥の間をそっと覗いた。赤子は、水穂の隣で大の字だ。

 静かに振り向いた水穂が口角をわずかに上げて微笑む。

「旦那さま、あなたさまの御子でございます」

 水穂の厳かな声音に、思わず知らず頷く四郎。

「可愛い赤子じゃ、な、水穂どの」

「はい、赤子はみな可愛いものです。どうぞ、可愛がって下さいませ」

 はや、母親となったのか、水穂は初めて饒舌に四郎に話しかけ、子の幸を願うのだった。

 うん、うんと頷きながら四郎は考える。

(この子を可愛がれば、わしは父親となり、水穂さまの本当の夫にもなれるのか‥‥‥)

「旦那さま、子の名前を考えて下さいませ」

「お里の殿さまに考えて頂いたらどうじゃ。わしが考えるより、その方が‥‥‥」

 水穂は、いやいやと首を振っている。

「良いのです。父上は、忙しいのですから、ご自分の御子なのですから、旦那さまが名付けて下さいませ」

「そうか、そうじゃな。どんな名が良いかな。てんぐ‥‥‥」(の子じゃから)と云い差して四郎は、息を飲んだ。

 水穂の目が天井に遠のき、悲しみを捕まえて戻ってきた。

(ああ、わしは何って馬鹿なのだ。これでは赤子の良い父親にはなれんぞ)

「おうふぉん」と咳払いをした四郎は、しばし、考えさせてくれと笑顔を作ってみせた。

 名もないまま、元気に育つ赤子に、祖父である水穂の父親から文が届いた。水穂が嫁して、初めてことだ。

 立派な書状を開けてみる。


『穂那美』


 黒々とした太筆で、大書されている。他には、祝いの詞もない。それでも、赤子の名前であることは分かる。

「水穂の娘だからな、穂の字をとって穂那美なのじゃな。良かった。殿さまに名を頂いて」

 四郎が喜ぶと水穂は、悲しみを振り棄てて目元口元で必死に微笑んでみせる。

「立派な名前でございますな」

「うん。立派な名だ。まあ、女子の名前は、符牒のようなもの。呼ぶのに便利の為じゃ。年頃になって、良い殿御に嫁入り、何某の殿の妻女と呼ばれるのが、正しい女子の呼び名じゃそうな」

「はい、わたしも今日からは、四郎さまの妻女と呼ばれとうございます」

(ありがとう)

 四郎は深々頭を下げた。

 かくして、水穂と四郎は無事夫婦となった。赤子は、大きく荒々しい川を渡ってくる空っ風にも負けず風邪も引かず、ずんずんと大きく育っていく。

 四郎の屋敷に赤子の泣き声が響き渡る。

「穂那美さま、穂那美さま、どうか、どうか、泣きやんで下さいませ。それでないと、またこの鴇乃が姫さまに叱られまする」

 今日も、穂那美の泣き声に鴇乃がさえずる。母となり妻となった水穂を未だに姫と呼び、穂那美は姫さまではないのだ。

 母なる水穂は、今日も気鬱の病か奥の座敷で臥せっている。

 幼い頃はお転婆で、乳母の手を逃れては縄手道を転げ回わり誰かの背中で居眠りしながら戻ってきた。年頃になると、さすがに外で遊ぶことはなくなったが、留守がちの父親がたまさか家にいえれば父親に口で挑みやりこめて、甘い父を楽しませた。

 産後の肥立ちは良いとは云えず、臥せることが多くなった。産み落とした赤子に生気を吸い取られたようだ。

 日本ひのもとの国を生んだ伊邪那美イザナミは、次々と八百万やおよろずの神々を生む。火の神を生む時は自らの御陰ほとが焼けるのも構わず産み落とした。

 水穂は、大きな鼻が引っかかる天狗の子を傷つきながら産み落としたのだ。水穂ばかりではない、すべての女達は己の御陰を押し広げ傷つけてまで神の子を産むのだ。

 病勝ちとなった水穂に代わり、乳を与えるのは、近隣の元気な農婦だ。一人ではない。三人、四人いなければ大きいな赤子は満足しない。

「すまんな、ご苦労さま」と、労う四郎を鴇乃が咎める。

「あの者らには、多分の謝礼を支払っているのです。礼を云うのは女子達でございます」

「さもあろうが、こんな夜分にご苦労なことで‥‥‥」

 みなまで云わせず、細いまなこを更に細めて鴇乃が首を振る。

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