第1話 天狗の子誕生

 人っ子ひとり動かない村は風も絶え、居眠りの真っ最中だ。

 村を貫く川は、光を映しつつ煌き流れ続けているが、川音かわとは乾いた虚空に吸い込まれ、音とは気づかれない。秩父山系から流れ出たこの川は、広がる丘陵を撫でまわし肥沃な土地を生みながら大河に注ぎ、やがて葦が繁る内海をぬって大海原へと至るはずだ。

 この暑い静寂は一刻あまりも続いている。

 西の端に薄い雲が生まれ、その足元から小さな風が起きた。田畑の萌える緑をそよがせて力を失った風が、川面で息絶えると思い出したように川音が蘇り、慌て者の蝉がジッと鳴いた。

 小さな営みが、ひねもすウトウトする山里に戻ってきた。

 息づいた田畑の隙間に軒深く蹲る家屋から大音響が解き放たれた。


「オギュワーーーン」

 その子は、村の端々までも届く大声を張り上げて生まれ落ちた。

 その大声に、産婆は腰を抜かし、仕方なく父親の四郎が慣れぬ手つきで産湯を使わせた。大きな泣き声に、「おお、男児の誕生か」と喜んだが、盥に浮かぶ赤子には男子のしるしはなく、つるりと肌が光っていた。

 男児なら、天狗の子でも強くて良かろうと密かに望んでいたが、思わずフーと小さなため息。

 赤子に頭髪はなく、泣き声の勢いに応えて顔面は赤赤と色味を増す。造作は確りとして、なかでも中央にある鼻は小さいながら、噂に違わず、天を突いていた。

 今では誰もが、泥に塗れた小さな餓鬼どもまで、水穂の腹の子は天狗の子だと噂した。

 その天狗の子が生まれたのだ。

 四郎は、大きなため息を何とか隠し、肩を上下にゆすって赤子を褓に隠した。


 水穂みずほが嫁いで来た日の事を思い出す。前もって財産分けの譲り状が渡され、屋敷は水穂の財産となっていた。小さいながらも門のある立派な家だ。四郎は門前に立ち嫁入りの輿が止まるのを待っていた。水穂はその身をかがめて降り立った。いくら前かがみになろうとも、その腹の膨らみは隠しようもない。もちろん四郎は承知のことだが、ふっと顔が赤らむのが意識され、更に体中の血潮が駆け巡った。

(わしが、恥ずかしがってなんとする)

 花嫁は、赤らむ四郎の目をはじき返すように、土間の中に消えた。あわてて後を追う四郎の袖を引き「旦那さま」と呼びかける女がいる。

「な、なんじゃ、わしのことか」

「はい、わらわは水穂さまの乳母にて、鴇乃ときのと申します。以後、宜しゅうに」

 水穂を育て上げた女であった。

 小さい頃、水穂の屋敷内で見知っていた。それでも初めて挨拶をされたのであれば、四郎も初めてとして、もにょもにょ口を動かした。

「あ、あ、よしなにな。わしが四郎じゃ」

「はい、旦那さま、承知いたしております」

 四郎は考える。そうか、今日からわしは旦那さまかと。

「旦那さま。水穂さまは今宵お疲れにて、何とぞ、お一人にてお休みをお許し下さいますよう‥‥‥  はい、お願い出来ますな」

「ふむ、ふむ」

 四郎は、顔をガクガクと上下に振り、したり顔の鴇乃を見やった。

 鴇乃は胸を張り、四郎を見下げているように見える。四郎の見張り役として付いて来たことに間違いはないであろう。

(わしは、水穂さまの本当の夫になれるのだろうか。見せかけの夫、まがい物の父親、掛け声だけの旦那さまかな)


 水穂は絶世の美女と云う訳ではないが、醜女しこめと云う訳でもない。鴇乃のように切れ長の細目に瓜実顔の都振りではないが、黒眼勝ちの二皮目が明るい光を帯びたそこそこの美形だと四郎は思っている。

 幼い頃は、一緒に遊んだ覚えもある。泣きだした水穂を背に負ぶい、縄手なわて道を歩いた。二人の影を夕日が温かく見守っていた。

 楽しい出来事などなかった四郎が、わずかに覚えているじわりと胸躍る思い出だ。

 長じてからは遠目に眺めるだけだったが、(ああ、水穂さまがお出かけだ)などと、その存在は何時も四郎の胸の内にあった。

 例えその腹が膨れていようと、持参金付き、乳母や下男下女を伴って嫁いで来たのだ。

 貧しい下士のこのわしに。

 腹の中の子も家の宝、財産だと思えば、万々歳の嫁取りだ。

 その縁談が四郎に持ち込まれたのは、ほんの前月の末、近在のみんなは「持参金に目がくらんだんだ」と噂したろうが、四郎にとって水穂は小さな灯にも似た憧れであった。こたびの嫁入りは、夢にも見ることが出来なかった椿事なのだ。

 あの日、水穂さまの後を追って家に入った四郎は、奥の座敷の上座に座わり目を逸らせたままの嫁に挨拶すると板の間に下がった。

 それから、およそひと月、蝉が孵化しようかと悩み始めた夏の朝方、水穂は小さな怪物を産み落としたのだ。鴇乃は、あいにく水穂の里からの呼び出しに応じていて、一旬ほどあわてて飛び出した子の誕生に間に合わなかった。

 大事な時に役に立たないのは、鴇乃の特性であった。

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