第8話 疲れるという事
仕事、ストレス、運動等に、注力を注げば注ぐほど、疲れは出るものだ。
頭?体?心?様々だが、私は疲れるほどに、生きている事を感じる。
出来ることなら、心労(ストレス)が続くのは勘弁だが、避ける努力はするものの、実際のところ、何の塩梅か自分ではどうにもならない事が多い気がする。
それでも、ジタバタして疲れないような合理的方法を選んだり、最善を常に選択し続けているつもりなのだが、何かしらで疲れている。
疲れ方によっては、鉛の玉を引きずるアニメに出てくる囚人のように感じることもあるが、最高に気持ちがいいのは、心地よい疲れだ。
私は、毎日その爽快とも云える疲れを味わいたくて自分の時間と労力と神経を使っているのかもしれない。
悪いがその心地よさは、自分以外の誰も感じることはできない。その時の快感を実態として共感することも稀だ。
一度味わってしまうと中毒性がある。危ないのだ。求めすぎると、際限なく全身全霊を注ぐ勢いで命までも削りたくなるほど打ち込んでしまう。
かつて、熱中しすぎて低体温になっていたことや、低血糖になって震えが止まらなくなったりした大暴走の経験がある。まさに若気の至りだ。
今は、そろそろ危険な状態だと気づくので、残念だが断念して終わることも出来る。年を重ねるということは、なんとも寂しいような、よくできたものというか、無理できないような構造になってくるのだ。
自制が効かないのは、自分以外からの圧力に対しての時だ。いわゆる、水からカエルをいれて火にかけられているようなものだ。これはあくまで比喩ではあるが。
しかし、人は学習するもので、他者からの圧力もある程度の種類に関しては、経験すると関連性のある種は察知して、ここからは危険かも等と感じてしまうし、他者に対しても、篩にかけある程度の判別が出来るようになってくる。
合理的かつ詰まらないものとなるのだ。
若いうちは、冒険、失望、情熱等、本能のままに、抑えきれない熱情に、葛藤に激しく悶える機会が与えられる灼熱の時期なのだが、今は静かな出来の良い活力のない『よゐこ』達が、保護者の過剰な擁護のもとに口先だけで外見だけが成長していく、頭でっかちで経験無な合理主義者だ。
少し崖に立たせれば、足がすくんで動けなくて声も出なくて。。弱すぎる。。
自力で這いつくばって、泥にまみれて、情けなくて、惨めで、恥ずかしくなるような経験を若い時に経験することは大事なことだと思うのだが。。
疲れ果てるのは、机の上の勉強だけで終わってほしくないものだ。
成長すればするほど、理不尽に苦しむ機会は必ず来る。ある程度の心の予防接種は必要なのだ。免疫をつけ、強くなる。そして、優しくなれる。
年を重ねたからと言って、悟りきることはまず無いと思っている。時の流れ、世の中の動き、各自の考え、世界の広がり、人との関わりがあるからだ。
全てを解決する方法は、無いことはない。あきらめること、妥協する事。
自分以外は、へぇ~そういう考えもあるのね。自分は違うけど等と自分の立っているところを〇で囲んで、自分と自分以外とする方法だ。
これは、かなり強力な解決方法で、自分が弱っているときは、かなりの特効薬となる。まさに万能である。
しかし、暫くすると、つまらなくなってくる。
自分勝手なものだ。
だから、人間は面白いのだ。
さて、今日が終わる時は、どんな疲れ方になるのだろう。今日一日はどんな一日にしようか、または、どんな一日が予定されているのだろうか。
そう考えると、毎日が結構楽しみになるのである。
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