ママ

『本当に聖書の言葉でも書いてあっても不思議ではないかもしれない。そんな出会いをした夜だった。  FIN.』


 この投稿を最後に、馬場さんの小説の更新は止まってしまった。

 それどころか、今日の朝にページを開くと、この記事は何故か削除されていた。少し気になった文面だったので昨日のうちにダウンロードしておいてよかったが、なぜ、三日前のこの記事だけ消えてしまったのか。


 最近、自分の仕事の勘が鈍ってきているのを感じる。

 以前はリピーターになってくれそうな客が、初めての来店の時になんとなく分かったが──この前、馬場さんが帰って行く時「また来てくれそう」という直感が働いたのに、あれからまだ一度も店には来ていない。


 外したことがあまり無かった直感がここ最近で二回も外してしまっているのは、やはり年齢によるものなのだろうか?


「ママぁ〜、ミルク入れてぇ」


 今日もミルクという小娘は準備中の時間に店にやってきた。ほんと、何が楽しくてうちの店に来ているのか、未だにわからない。

 牛乳だって酒に比べれば安いが、それでも頻繁にコンビニ店員がおかわりできるような値段にはしていない。と、いうかこの小娘が来て、テキトーに追い払うために言った値段だ。

 スーパーで普通に売っている牛乳パックから注いでいるのを目の前で見ている癖に、文句も言わず、ヘラヘラとこちらの言い値を払って帰っていく。

 コスプレとやらでそんなに儲けているのか。まぁ、確かに水商売をやればそこそこ稼ぎそうな外見のスタイルをしている。

 ひっそりとこの娘が言っていたサイトを覗いてみたら、こっちが目を覆うような過激なポーズで写っているものが売られていて、少し驚いた。


「ママぁ!」

「すぐに入れるわよ」


 サンプルの写真の中に何気なく写っていた彼女のオフショットを見て、思わず画面ごと消してしまった。


「なんか、今日、機嫌悪くない?」

「……アンタに機嫌が良かった事なんかないでしょ」


 私が牛乳のグラスを置くと、彼女はまたニヤッとこっちを見て笑った。カラーコンタクトで光がくすんでいる瞳に私の姿が写っている。

 外から四日前と同じ川が流れているような音が聞こえてきた。また、夕立。最近は夕方じゃなくて、少し涼しくなってから降り出すようになった。


「パパ、来ないねぇ」


 あの日と同じような雰囲気が。これくらいの時間に突然、馬場さんはドアを開けてずぶ濡れで店に入ってきた……彼の小説を読んでから、彼ともう一度会うことを切望している自分がいる。


「ねぇ、パパの小説、読んだ?」

「……ちょっとだけね」


 小娘は「ふーん」と言って、また牛乳を飲み出した。


「いっぱいあったよねぇ。あんないっぱいの文字、頭のどこにしまってるんだろうねぇ」

「真面目そうだったから、遊びもせずにあんな事ばかり考えてるんでしょ」

「でも、なんかパパが浮気した話があったよ」


 ゴッ!


 心臓の鼓動から鈍い音がした。


「読んだの、アンタ?」


 私が聞くと彼女はニヤッとこちらを見て笑った。さっきよりも瞳の自分が大きくなっている気がした。


 思っているよりバカじゃないの、この子?


 たわいもない日記の他にも何個か作品があり、私は布団に寝転びながらスクロールしていた。

 生真面目なあの人らしい、自分の日々をジメジメした文字で並べているだけの作品ばかりだったが……。


『三月の蝉』


 そのタイトルを見た時、私の胸の奥にあった小さなトゲが疼いて、思わずスクロールを止めてしまった。


『三月なのにセミが鳴いている、暑い夜のことだった』


 作品を紹介するところにそう書かれていて、私の脳裏に二十年前のことがフラッシュバックした。


 あの日のことはモノクロの映像で今でも覚えている。


「これは私の懺悔だ」


 ナヨナヨした作品ばかりが並んでいた彼から初めて、尖ったものを感じる出だしだった。


──あれは二十年前の三月の事です──


 やはり、あの夜だ。世界で私しか憶えていないと思っていた二十年前にあったあの暑い三月の夜のこと。

 ちょうど地球温暖化という言葉が出始めていたくらいだったと思う。

 三月の下旬だというのに、その日の気温はグングンと上がり、ついに三十度を超えたことがあった。


 当時、私は違法な風俗店で出張ホステスをしていた。

 金が稼げると騙されて日本に来て、言葉も身分もなかった私に優しくしてくれた男。彼が経営していた店で働いて、私は彼のことを愛していた。しかし、その彼が、突然、行方を眩ましてしまったのだ。

 側近や出入りをしていたヤクザらしい人に話を聞いたが、「もう帰ってこない」とだけ言われた。私には日本での偽名と水商売のノウハウだけが残った。


 彼を失った寂しさを労ってくれる人もおらず、私はいつも通り出張ホステスとしてラブホテルに向かった。

 ホテルに向かう途中、近くの神社の脇の自販機で缶ビールを買った。酔わなければ、仕事なんかしていられなかった。三月とは思えないほど蒸し暑く、昨日と同じスーツが私の体に貼り付いてきた。

 二本のビールを空にすると酔いが回り出した。すると、神社の境内の黒い闇からセミの鳴き声が聞こえた。


 まるで夏に戻ったような錯覚に陥り、不意に去年彼と祭りに行った時のことを思い出し、堰き止めていたものが化粧を上を流れていった。


 それから気付いたら、その日、ホテルで出会った見知らぬ客と身体を重ねた。寂しさに食われないようにするために必死で、抗うように悶えた。


──私は彼女のことを可哀想に思い。人生で一度だけ、妻を裏切りました──


 彼の小説に出てくるホステスの描写、ホテルの部屋の間取り、全てが私の頭の中にあるあの日の記憶と一致した。『なかなか子供ができない妻への苛立ちを感じていて、駅前でビラを見て魔が差した』とそこには私を呼んだ理由が書かれていた。

 顔も覚えていない相手だったが、初めて会った時に感じた既視感はこれだったのか。


 あの時の辛い過去が閉じ込めていた体の奥から一気に蘇り、私は吐き気を催し、布団の上に蹲った。


 彼の文字を読み終えた後は、まるで溺れていたように息が絶え絶えになって、ひどい頭痛に襲われた。


 彼の懺悔はそこで終わった。

 が、彼の知らない私の懺悔はまだ続く。その暗闇は私を引きずり込むように頭に映像を流していく。


 あの日、私のお腹に命が宿った。

 産婦人科で医者に言われた時期では、あの日しか男性と関係を持っていないからだ。

「産もう」

 と、なぜか当たり前のように思った。

 赤ん坊は翌年に無事に生まれた。私の腕の中で、すやすやと眠っていた。


 が、眠っている彼女を見下ろし、私は全身の力が抜けるほどの大きな後悔と対峙した。

 産んだだけで、私は何かの試練を乗り越えた気になっていた。その先、その子を育てていく事を想像したら、怖くて震えた。

 

「ねぇ、ママ!」


 小娘の声でハッとした。


 私の腕の中で目を覚ました赤ん坊は、私と同じ瞳の色をしていた。日本人には絶対にない瞳の色らしい。

 それを知って以来、私は得体も知れない恐怖でカラコンと髪の色を隠すカツラが手放せなくなった。

 なのに、


「小説、見たんだ」


 小娘のオフショットの瞳の色が、その色だった。


「ねぇ、ママ。私の本名知ってる?」


 彼女の甘ったるい言葉に背筋がゾクッとした。


「私の本名、ハルミって言うの。私を捨てたクソ女が名前だけは付けたらしいんだ」


 そう言って、彼女は私の前でカラーコンタクトを外した。その瞳に見つめられ、私は腰が抜け、後ろの棚に体をぶつけた。棚から落下したグラスが2、3個、地面で割れる音がした。


「漢字で書くと珍しいんだよ。春の蝉って書いて『春蝉(はるみ)』」


 そう言って、ニヤッと笑った。


「酔っ払ってコンビニに来る時もオシャレしないとダメだよ、ママ。そんな青い瞳をしてるの、日本じゃママと私くらいなんだから」


 窓の外の豪雨は止みそうにない。


 きっと今日も客は一人も来ない。

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