字句の海に沈む
ポテろんぐ
パパ
周りに目印も何もない雪原の真ん中でも、磁石は何かに引っ張られるように北を指す。おそらく人間には感じられない力を感じ取っているのだろうが、なぜその力を人間は感知できないのだろう?
いつの間にか歩きながらそんなことを夢想していた。いつもの癖で駅から早足で歩いているいつの間にか、考えるのに夢中になってしまった。
雲が怒り、怒鳴り声をあげる。
生憎、「家まで持ってくれ」と駅を出た私の願いは届かず、堰き止めていた板が外れたように空から黒い水滴が一気に落ちてきた。
まるで一粒一粒に命が宿っているように肌にぶつかる度に痛みを感じる。
私に向かって落ちてくる無数の黒い雨粒。
まるで、怒った神がひっくり返した聖書の文字が雨粒になって落ちてきているような、生暖かく、何かを懺悔してしまいそうな豪雨だ。
ここからでは駅に引き返そうにも手遅れだ。自宅と駅のちょうど中間地点で私は途方に暮れていた。
そんな時でもなければ、その店に入ろうとは思わなかっただろう。
いつもは下品に見えた赤や青の原色のネオンの看板がその日だけは神々しく輝いて見えた。
妻にびしょ濡れのスーツの文句を言われるよりはマシだと思い、私は雨宿りがてら、そのスナックのドアを開けた。
ニスが厚く塗られた年季の入っているドアを押すと、カランコロンと内側についていた鈴が鳴った。
「あれ? ママ、お客さんだよ」
そう言って私を迎え入れたのは常連の酔っ払いでも、口の利き方を知らないバイトの女の子でもない。
L字型のカウンターの長い辺のど真ん中にどっしりと座っている金髪の少女であった。歳は二十歳に手が届いているかどうか怪しい幼い顔立ちをしてる。
──どこかで見たような気がする──
彼女を見た瞬間、私の心臓が何かに反応したようにドキッとなった。
「お客って、今、準備中でしょ? 外は雨だ……」
奥から面倒臭そうに目を細めた女性が顔を出した。
「……あら」
ママと思わしき女性は私の顔を見るなり、タダでさえ大きかった目を更に見開いた。
そして、彼女の声と同じタイミングで私はまた違和感を感じた。
と言うか、彼女の「あら」のアクセントが『意外なお客』と言うニュアンスではなく、私の違和感と同じ波長の「あら」の言い方だった。
「すいません。急に雨が降ってきて。看板を見ずに入ってきてしまって」
「……どうぞ。濡れたものはその辺に干しておいて」
私は苦笑いを浮かべながら、L字の短い方のカウンターに腰掛けた。
私たちの挙動に違和感を感じたのか、少女が「知り合い?」とママに尋ねた。ママは少女とは対照的なストレートな黒髪を弄りながら、「指さすんじゃないの!」と彼女を注意した。
本当の親子だろうか?
あの若さでこんなお店に通ってるとも思えないが……。
「おつまみは準備できないんだけど、せっかくだから何か飲みますか?」
「ビールを」と注文したら、ママが瓶の栓を抜いて私に出してきた。家には夕飯が用意されている。流石にこれを飲み切る訳にはいかない。まぁ、雨宿りできたんだ、出費はしょうがない。
……どこかで会っただろうか?
ビールを一口だけ飲み、やっと気持ちがひと段落すると、さっきママを見た時の違和感が言葉になって浮かび上がってきた。
私だけではない。さっきのママの「あら」は、前に何処かで会った人へのそれだった。
ただ、以前にママとも、そこの少女とも私は会った記憶はない。
気のせいだろうか……それとも。
「彼女、駅前のコンビニでバイトしてるのよ」
ママがそう言った途端、「あっ」と思わず声が出た。よく使うコンビニだ。そういえば金髪の若い店員がいたのを思い出した。
それで、何処かで会った気がしたのか。
「ママ、おかわり」
少女はグラスをママに差し出した。よく見たら飲んでいるのは酒では無く牛乳である。
「ほんと、お酒も飲めないのに、なんで毎日来るのよ」
ママは金にならない客には冷たいらしく、引ったくるようにグラスを取り上げて牛乳を注ぐ。
「だって、居心地いいんだもん、ここ。お客さんもあんまり来ないし」
悪気はないのだろうが、そういった瞬間にママの表情が強張った。
「準備中だからよ」
ママは怒ったように返したが、少女は相変わらずヘラヘラしている。
「毎日来てる」と言ったが、本当に何をしに来ているのだろう? コンビニのバイトでは、毎日牛乳だけでも結構な額になるはずだ。
「私、コスプレイヤーだよ。名前はね、ミルクって言うの」
ふと少女はそう言って自分の目を指差して私に見せた。
「ほら、カラコン入ってるでしょ? キャラに合わせていろんな色のコンタクトを入れるんだよ。紫とか、赤とか」
「へぇ、そうなんだ」
コスプレイヤー、コスプレは聞いたことがあったが、なんでもミルクはネットで写真集などを作って売り小遣いを稼いでいるそうだ。
傍目で見ている時は、そういう世界を嫌悪していたが、目の前で説明されると「そういう世界もあるのか」と経済として動いていることに少し感心してしまった。
「ミルクって名前でググったら私の写真とかも出てくるよ。エッチィのとかもあるから、あれだったら買ってね」
「いや、女房もいるんだよ、俺はぁ」
彼女は慌てている俺を見て、ニタニタと笑っている。
重い雨の壁が外界を遮断しているからか、静かな店で三人、たわいもないことを話しているのが妙に落ち着いた。
共通点も何もない三人だが、まるで昔からの知り合いだったように話は尽きなかった。30分と決めて入ったはずが、時計を見たら知らない間に針が一周していた。つい長居をしてしまっていた。
「わー、すっごいでっかい雲」
少女が見せてきた雨雲レーダーからすると、雨はあと三十分は止みそうにない。
「今日は常連さんもみんな来ないらしいから、もう少し居てもいいわよ」
ママがスマホを見ながらそう言うと、ミルクが「やったー」と喜んだ。どうも準備中の間だけ、店に居ていい暗黙の約束のようだ。
「ねぇ、オジさんって何やってんの?」
私は仕事の内容を説明したが、ミルクはお気に召さなかったらしく。「そういえば、名前何?」と質問を変えられてしまった。
「馬場だよ」
「じゃあ、パパって呼んでいい?」
「いいよ」とは言わなかったが、ふっと笑みで返した。
「パパは仕事以外、なんかしてないの?」
ミルクの人懐っこさに私はつい油断をしてしまったのか、
「ネットで小説を書いてるよ」
と、妻にも言っていない趣味を打ち明けてしまった。
その瞬間、ママとミルクはポカーンと顔を見合わせた。
「あ、趣味だよ! プロじゃないよ!」
とっさに訂正したが「すごーい」と興奮した二人の勢いに押され、私は二人に投稿しているネット小説のサイトとアカウントを教えてしまった。
まぁ、しょうがないか。と、ビールの残りを飲み干した。
店に入った時に直感したが、この二人との付き合いは、もしかしたら長く続くかもしれない。小さな秘密くらい共有しておいてもいいだろう。
雨が小雨になり、ミルクと店を出て、別れた。雨はまだポツポツと降っていた。
街灯を見上げると光で水滴は小虫が宙を舞っているように見えた。さらに目を凝らすと小虫一つ一つが本当の文字になっている様に見えた。
本当に聖書の言葉でも書いてあっても不思議ではないかもしれない。そんな出会いをした夜だった。
FIN.
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