第23話 学術研究 日本涼国に於ける華麗宗密教の成立と役割について

 初めまして。日本における仏教の独特の進化ついて研究しておりますを横浜国際理科大学の進藤武太(しんとう・ぶった)と申します。とってつけたような適当な姓名ですので、今回限りの“捨てキャラ”だとは思いますが、諦めずに頑張って論証したいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


 さて、日本独特の仏教といえばやはり『華麗宗』を考えないわけにはいきません。中華からギフトされたと言われる仏教・密教ワールド。とりわけ、真言宗の東密、天台宗の台密が有名ですが、華麗宗の密教は、本尊・不動明王をはじめとした、仏像方の豪華さと比較して執り行われる修行の厳しさ、激しさは他に類を見るものではありません。禅宗(曹洞宗、臨済宗など)または日蓮宗の修行の厳しさは有名なものですが、もう宇宙的に全くレベルが違うものです。毎年、必ず死者が出るため、当地の検非違使や県警本部長自らが定期的に寺へ来訪し、修行を見聞し、あまりの修行の厳しさに「改善の命令書」を阿闍梨に渡すとともに「毎年、一ヶ月ほど、新人を預かって欲しい。礼儀作法を身をもって教えてやって貰いたい」と密かな約束をかわしために、以降、修行中の死亡事故自体はなくなったと言われています。実際にはどうなんでしょう? 逆に公権と繋がったがために……憶測で論議するのはやめましょう。



 かつて、音雨山華麗宗仁王寺に住職として存在していた覚詠という人物が途轍もない傑物であったと伝聞が残されています。(『日本涼国記 僧侶ノ部』等)


 さて、覚詠の所属する華麗宗は繰り返しになりますが『荒行の密教』と言われています。総本山の御示威山華麗宗二王寺(覚詠の寺とは一文字違いです。他意はありません……とはもちろん言えません)では、若い修行僧たちが日々、心身の鍛錬をしています。その内容といえば、まず、丸太のようなお経を三巻全部、暗記しなくてはなりません。それは『栖語彙項集』『緋土意安久集』『苦才堆集』というとても匂うような巻物です。三巻セットで個別販売は現在もされていません。もちろん、Amazonさんでも購入出来ません。どうやって、家に持ち帰ればいいのでしょうか? それは、二王寺の参道にクロネコさんがいるので、そこで配送手続きをするのです。いい商売になるそうです。

 本当に森から伐採して来た木のように太いお経ですので、書庫から修行場へ持って行くのにもたいへん苦労します。これを覚えるだけで半分以上の修行僧が脱落しそうになります。ただし、これには裏道がありまして『省宗裏記』と呼ばれる虎の巻が存在して、そこに書かれてあることを覚えておけば一応、第一段階は合格とされます。お経を覚える修行を終えると、次に習熟度試験が待っています。『無秀拿』と呼ばれるものです。これで満点を取らないと最終段階へは進めません。多くの者たちがここで本当に脱落してしまいます。今回は救済措置も虎の巻も全くありません。今後は寺に残って、下級の僧侶に甘んじるか、寺男になるか、実家に帰るほかにすべはありません。しかし、彼らは決まって「厳しすぎるが、確実に青春の一ページにはなったはずです」と言って、皆、遊興に励んでいます。そんな根性で成就はないですね。


 晩年の肖像画から見られる姿はとても恰幅のいい覚詠ですが、修行僧の頃はボディビルダーも真っ青になるほどの肉体美を誇ったと、彼自身が言ったと文書に書いてあります(『覚詠自伝』)。当然のことながら真偽のほどは明らかではありません。

 さて、厳しい試験に合格しますと、最後の荒行『孤之辺耶苦歳妖』が待っています。それは三年間に渡り、山腹にある不動堂に参籠し、食事は一日一食、睡眠も一時間しか取らないで、ひたすら護摩を焚き続けなくてはならないものです。外に出るのは真夜中の「散策」と呼ばれる、ひたすら真っ暗な山中を駆け回る危険行為の時のみです。


 話は変わります。

 相模の住人に平安末期、風花太郎平光明と申します武士がいました。坂東を制し、朝廷に対抗しようと坂東諸国の国司、豪族を集めていましたが、異母弟らの裏切りにあい敗戦し、越後に一人逃れました。

 そこで出会ったのが、求名という当時の二王寺の阿闍梨でした。求名は自から、布教活動と新人発掘の旅をしていました。当時の華麗宗は修行があまりにも峻烈すぎて弟子の希望者が全然なかったので、経営に行き詰まり、阿闍梨も営業活動せねば食えぬという状況でした。所在の場所が東北の最北部というのもいけなかったようです。仏教の中心はやはり、奈良、京都にあると求名が光明に話したことが記録に残っています。(『風花太郎伝』)

「それもこれも始祖、嵐真(らんしん)が唐の国から都に来ようとした時、船が嵐にあってな、俘囚の地に辿り着いたからじゃ」

「なら、それから都に行けばよかったのでは」これは平光明の質問です。

「うぬ、本人はそのつもりだったようじゃが、長きの修行で足腰が立たなくなってしまい、やむなく彼の地に残ったそうじゃ。それに俘囚の豪族、安倍氏が援助してくれたそうで、居心地が相当に良かったのじゃな」

 さらに求名は当時の仏教界を嘆いています。

「今の仏教界は経典や典籍を読んでいれば修行が成り立つと思っておる。頭でっかちじゃな。しかし本来の修行とは山林に入り、自然の中で、己の心と体を鍛え、その後御仏の前で心を鎮め経を読むもの。それがいつしか変わってしまった。口惜しいのう」

 ここで、求名は気がつきます。平光明の持つ潜在能力に。

「お主なら我が華麗宗の荒行『孤之辺耶苦歳妖』を成し遂げられるかもしれぬ」

「なんですか、それは?」

「だから、我が華麗宗の修行の中で最大の苦行じゃ」

「体力なら有り余っております。頭とて人並み以上と自負しておる。やってみましょう。その『孤之辺耶苦歳妖』を」

「その前に基礎から学ばねばな。華麗宗の三大経典、『栖語彙項集』、『緋土意安久集』、『苦才堆集』を読み、理解せねばならぬぞ」

「はい」

 こうして光明は仏門の道に進む事になったと言われていますこのことは『名僧言行録』という比較的信用出来る文書に記されています。


 求名と供に華麗宗御示威山二王寺を目指した風花太郎平光明は、その寺院の予想外の大きさと荘厳さに驚いたと言われています。当時の東北地方に対する蔑みの心は他国の人々の考えからするとこういうものだったのでしょう。

 光明は僧名を音読みの『こうみょう』としてもらい、光明法師として、求名の手で得度しました。

 三経を読もうと書物庫まで行って光明は驚来ました。本当に丸太のような経典が三つあり、その一つが『栖語彙項集』だったからです。しかし、元は武士の光明、「根性一発」と『栖語彙項集』を持ち上げ教練所まで一人で運び、それを読み出しました。その内容は案外たいした事はなかっと光明は求名に言っています。光明はかつて、『論語』を始め、『孟子』『大学』『中庸』の四書に『詩経』『書経』『礼経』『易経』『春秋経』の五経、それに『韓非子』『孫子』といった哲学から軍事の実践書まで漢文で読んでいたのです。。光明は三ヶ月で『栖語彙項集』を読破しました。

「だが調子に乗るなよ、光明法師。この寺の中興の祖、空最(くうさい)上人は一晩で三大経典を理解したという。上には上がいるものだ」

 求名は光明を戒めました。

 続いて光明は『緋土意安久集』を三ヶ月で、『苦才堆集』を四ヶ月で読破しました。そのころになると、他の修行僧も、

「光明殿は天才だ」とか「空最上人以来の俊英」と光明を褒め讃えるようになったそうです。それと比例するように光明は禁欲的になり、心身が研ぎ澄まされて来たとされています。

「うん、これなら我が華麗宗の奥義『孤之辺耶苦歳妖』を行えるかも知れない」

 と求名が言ったのは入山一年の後でした。

「命を懸けて行います」

 と光明が宣言しました。『孤之辺耶苦歳妖』をこれまで成し遂げたのは華麗宗中興の祖、空最上人と求名、それに前出の覚詠のたった三人だけだったのです。

「心身を痛めつけるのは武士の時代に慣れております」

 そう言って光明は不動堂に入りました。一年目、淡々と修行をこなす光明、二年目にはかなり痩せ、髭茫々となった光明が真夜中に何事かを喚きながら山中を走り回る声が轟き、他の修行僧達は怖い上にうるさくて、眠れなかったそうです。そして、三年目。ついに『孤之辺耶苦歳妖』を成し遂げた光明が痩せきった姿で不動堂から出て来ます。

「見事!」

「満願成就じゃ」

 と皆が祝福する中、光明は、

「なんだか知らぬが、物足りん」

 と言って、連続二回目の『孤之辺耶苦歳妖』に突入してしまいました。

「何たる無謀!」

 求名が止めますが、

「心配ご無用」

 と言って参籠してしまいました。二回目はわりあいと静かに行われ、修行僧たちは皆、安眠出来ました。ただ一人求名だけが、

「あの過酷な『孤之辺耶苦歳妖』を二度も行うとは尋常な精神力ではない。不動明王のご加護を」

 と祈り続けたそうです。

 そして三年、通算六年。ついに『孤之辺耶苦歳妖』二周という快挙は成されました。さすがに光明は激しく痩せ、目もうつろでありましたが、

「誰も成さん事を出来た。求名さま。ここに誘ってくれたあなたのおかげです。これからも修行に精進します」

 と言ってばったり倒れたそうです。光明はその後五日に渡り昏々と眠り続けました。

 回復した光明は他の修行僧から一目も二目も置かれる存在になりました。しかし、光明は以前の口達者な性格から無口な男に変化していました。それは精神の内面が充実し、外の世界に興味を失ったからでろうと思えます。心の中で自らに問い、自ら答える。他の者の教えなどは必要なかったのです。

『孤之辺耶苦歳妖』の内実はこの『風花太郎伝』にしか載っていません。著者などが不明のため、あまり信用性はありませんが参考のために抜粋を付記しました。


 江戸末期にも華麗宗が顔を出します。『徳川虚記』の最終巻です。読みやすい文章ですので抜粋します。


 ……やがて丸太で出来た階段が見えて来た。足の向くまま気の向くまま、それを踏みしめる。その先に有ったのは荒れ果てた寺の山門だった。

「御弥慈山・苦災寺、か」

 新九郎は呟いた。

「苦しみ、災い。なんと因果な寺だ」

 山門をくぐる。また階段が続く。新九郎は額に若干の汗をかきつつ上を目指す。そして、

「これは」

 と小さく叫んだ。目の前の本堂があった。建物は朽ちていて戸は開放されている。その中に見事な不動明王像、それに八大童子像が奉られていたのだ。しばし魅入り、その後、手を合わせる新九郎。

「このようなところで明王様に出会えるとは、奇縁なり」

 新九郎はこの偶然の出会いにおののいた。そのとき、

「どなたかな」

老人が声をかけて来た。頭を丸めているので住職であろう。

「それがしはこの麓にある鶴見一家に寝起きしております草刈新九郎です」

 新九郎は名乗った。

「そうであろう。お主には血の匂いがする。今までに何人斬った」

「二人です」

「二人か。意外に少ないのう。拙僧はまた、京で流行りの『人斬り何とか』の類いかと思った」

「ご冗談を」

「そうであろう、冗談じゃ。拙僧はこの寺の住職、孤雲じゃ。よろしくのう」

「それはそうと御住職、この不動明王像は大変見事なもの。特に右手の利剣、これは黄金、さらに左手の羂索は真珠ではござらぬか。このような宝物、失礼ながら野ざらし同然では盗賊に奪われませんか」

「そうであろう、よく狙われるぞ」

「なんと」

「安心されい。拙僧これでも相当な薙刀の使い手でな。盗賊ごときは一閃の下に斬り伏せよう。仏は裏の墓地に埋めれば良い。檀家が少ないから場所はあり余っておる。今頃、仏となった野盗共が墓の下で丁半博打をしておろう」

 かかか、と雲孤は笑った。

「またまた、ご冗談を」

「そうであろう、これも冗談じゃ。それより草刈殿、廚で般若湯でもやらぬか」

 新九郎は雲孤が名僧なのか生臭坊主なのか分からず戸惑った。

「それがし、酒は呑めません」

「そうか、つまらんのう。では茶でも如何かな」

「御馳走になります」

 新九郎は雲孤に誘われ裏庭へと進んだ。そこには立派な茶室を拵えた離れがあった。

「御住職、この様な物を作るなら本堂を修理したほうがよろしいのではないですか?」

 新九郎が窘めると雲孤は、

「茶は遊びではない。心を鎮め、身にまとった余分なものを削ぎ落すもの。これも修行じゃ」

 と言い、またしても笑った。

「はあ」

 新九郎は問答では孤雲に敵わぬと悟り、茶室の潜り戸に向かった。

「どうぞ」

 孤雲は新九郎を招く。室内は質素で一輪の紫陽花が竹筒に生けられている他は『火生三昧』と書かれた掛け軸があるだけだった。

「どうかのう。ここは天地から離れ、なおかつ天地を含有した一つの世界。拙僧にとっては経を唱えるよりも大事な修行の場。精神を研ぎ澄ますための場所じゃ」

 新九郎は茶室に入ったときからえも言われぬ不安を感じていた。持病である。新九郎は懐から薬を出そうとする。それに気付いた孤雲は、

「なに、恐れる事はない。薬など不要だ。まずは茶を喫するが良い。上菓子こそは残念ながらはないが小豆餅がある。召されよ」

と小皿を出した。新九郎は目を瞑り、心の動揺を抑え、茶を黙って喫した。

 しばし静かな時が流れる。不安はやがて雲散霧消していた。

「ところで御住職、この寺の宗派はどちらでござるか」

 沈黙を破り、新九郎が尋ねる。

「華麗宗じゃ」

「華麗宗……聞いた事がございませんな。禅宗ですか」

 相模、恩恵国には鎌倉幕府成立以降禅宗の寺が多く建てられていた。それを知っている新九郎は尋ねた。

「いや、密教じゃよ」

 孤雲は応える。

「密教ですか。密教には東密、台密があると存じておりますが」

「うんにゃ、我が華麗宗はどちらにも属さぬ」

「ほう」

「そうだのう、お暇ならば語って進ぜよう」

 孤雲は語り始めた。

「時は都が奈良にあった頃と伝えられている。唐の国、その地より一人の僧侶が陸奥国に流れ着いた。もっとも縁起では空より飛来したことになっておるがのう。まあ、伝承だと思われよ。その僧の名は嵐真。これが本宗の始祖じゃ。中華本国では様々な経典を読破し、天才の名を欲しいままにしたが、少々変わり者で西安の仏教、経典では飽き足らず諸方を旅し、様々な経典を暗記し自分の物とした。さらに西蔵や印度、あげくの果てには南蛮まで足を伸ばし伴天連の経典までも読み漁ったという。よく南蛮語が理解出来たか不思議じゃがな。とにかく、過ぎたるは及ばざるが如しというが、ここまで度が過ぎるとかえって褒め称える者が多数出て、西安にて唐の国第一の僧正の位を授かった。そこでじっとしていれば良いものを嵐真上人、今度は日の本の国、つまり本朝に興味を持った。一説には八百万の神の神髄を見ようとしたと言う。宗旨違いじゃし『本地垂迹説』も未だ無いのにのう。そして、齢五十一のときに周囲の反対を押し切り、我が国に船出したと言う訳じゃ。ただ、本当は都に行きたかったらしいが、船が大風に逢い、遥か彼方の陸奥に着いてしまった訳じゃ。それでも嵐真上人はめげずに都に上ろうとしたが長年の辛苦がたたり、足腰が立たぬようになってしまい、やむなく陸奥に腰を落ち着け、神道の研究などをしながら、その地の豪族安倍氏の協力で寺を建てた。寺と言うより庵のようなものだったらしい。当然名前もない。そこで弟子を集め、長年の修学をまとめた『栖語彙項集』、『緋土意安久集』、『苦才堆集』の三巻の教書を上梓し学僧に教えるとともに、奥義中の奥義とされる『孤之辺耶苦歳妖』の荒行を完成し嵐真密教を昇華させたのじゃ。本朝の言葉も分からずに良くしたものじゃ」

 ここで孤雲は茶をすすり、一息入れると話しを続けた。

「しかしなあ、嵐真僧正の努力もむなしく、布教は下火になっていった。なぜなら先ほどの三巻、一巻一巻が途轍も無い長文なのだ。しかもすべて漢語。覚えることはおろか読み通すのも困難じゃ。えっ拙僧か。それはもちろん全部暗記しているぞ、えっへん。でな、読み通せぬ者のために内容を要約した『省宗裏記』という虎の巻が編まれて、凡人たちはそれを覚えて研鑽に励んだのじゃ。嵐真僧正は、その辺に気が回るお人だったようじゃ。だが『孤之辺耶苦歳妖』の荒行だけは妥協されず、とうとう嵐真僧正入定まで誰もなし得なかったし、都が平安京に移る頃になっても満願は現れなかった」

「御住職は如何致した」

「拙僧は当然のことじゃ」

「当然とは」

「拙僧は満願者じゃ。なにを疑っておる」

 新九郎には孤雲が若干動揺しているようにみえたが、追求はしなかった。

「話しを続けるぞい。嵐真上人入定から約三十年後、京より一人の学僧が陸奥にやって来た。法名を空最と言う。なんとこの者、遣唐使の一員として唐で修行を積み、本場の密教を学んだにも関わらず、『真の密教はこれにあらず』と言い放ち、嵐真上人の修行場の話しを聞き、わざわざ陸奥まで漂泊してきたという。それも地位と名誉を捨ててじゃ。もちろん、嵐真上人はもうこの世にいない。そこで空最は例の三巻を読み出した。そして、なんと三日三晩ですべて修得してしまったのじゃ。さらに空最は『孤之辺耶苦歳妖』の荒行を決行する。詳しくは秘事なので言えぬが、千日にも渡る過酷な行である。そして空最はやり遂げた。初の満願者じゃ。これにより空最は絶大な信奉を受けるようになった。多くの寄進を受け、嵐真上人の庵を修復増大し『御示威山・二王寺』を開山する。この空最上人こそ華麗宗の中興の祖じゃ」

 孤雲は茶器を手に取った。

「では、この寺はその末寺ということですか」

 新九郎は尋ねた。

「そうじゃのう。その話しもせねばなるまい。御示威山の開山百年後、二王寺に一人の武者が現れる。武者といっても粗末な身なり。浮浪の者であった。ただ、やせ衰えながらも筋骨隆々。気品ある顔立ち。一方ならぬ者とみた当時の住職はその者の入山を許した。彼の名を風花太郎平光明という。実はこの者武芸、戦略に優れ、一度は関八州を制圧しかけながら異母兄弟たちに裏切られ無惨にも敗残の憂き目に遭い辛酸をなめ、諸国を流浪して陸奥に身の置き場を求めた者であった。入山し光明法師となった彼は時間こそ掛かったが三巻を修し、ついに『孤之辺耶苦歳妖』に挑む事になった。そして驚くなかれ、この荒行を二回も成し遂げたのじゃ。なんたる気力。そして、満願の後、関八州に立ち返り、この寺を建てたのじゃ」

 孤雲の長話はここで終わった。

「荒行を積む。だから不動明王なのですね」

 新九郎が尋ねる。

「そうじゃ。修行は戦場よりも過酷。いつ、途中で命を落とすとも限らん。それを見守って下さるのが不動明王様じゃ」

「それがしも不動明王様を信じております」

「ほう、さようか」

「はい。それはそれがしの心にひそむ狂気を焼き払っていただきたい。その一心からです」

「狂気……それはまた」

「それがしの心には餓鬼畜生が宿っております」

 新九郎は拳を握った。

「それがし、幼少の折より『神童だ』などと呼ばれ周りのものより、ちやほやされておりました。実際、他の者より学問、芸術、武芸に優れておりましたし、それをひけらかすこともありませんでした。普通に過ごせば、公儀に役立つ忠臣として自信を持って生きていられたでしょう。しかし……」

「しかし?」

「天魔が必ず、それがしを襲うのです。ある日突然、全ての事が嫌になりそれまで積み上げて来たものを破壊します。友情、信頼そして事蹟。それらを作っては壊し作っては壊しします。賽の河原を積むように。そして、その暴挙を楽しむ自分がいるのです。その顔はまさに鬼のようでありましょう」

 話しは熱を帯びる。

「それもいずれは終わります。何もかも失ったそれがしは、ただ呆然と立ち尽くすのみです。大いなる不安がこの身を貫きます。そして今は博徒に厄介となる身。我と我が身が口惜しい。御住職、こんなそれがしを御仏はお救い下さるのであろうか」

 新九郎の独白は終わった。

「拙僧の申せる事はただ一つ」

「はい」

「人は産まれて来た以上、死ぬまで生きて行かねばならぬという事じゃ。嘆いて暮らしても、笑って生きても結果は同じ。全ては一瞬にして忘却の彼方に消えていく。だから気にするな。なにが起ころうとな。全て正解。人生に間違いはない」

 孤雲が真面目に説教をする。

「結果を恐れる事などないのじゃ。時は正解しか現さん」

「ではこの心の苦しさと不安は」

「生きている証じゃ。なんの痛痒も感じぬ者のほうが、生ける死人やもしれぬ」

「難しい説法は良く分かりませんが、とりあえず生きていろ、ということでしょうか」

「そうじゃな。生きていれば旨い飯が喰え、般若湯が呑める。季節の花を愛で、いぬや、ねこと戯れられる」

「なんとなく分かりました。ありがとうございます」

 そういうと新九郎は寺を辞去した。


 この一浪人草刈新九郎が実はときの征夷大将軍・徳川家元の実子でのちに最後の将軍・徳川義高になるので『徳川虚記』にこのエピソードが載っているのですが、大事なのは華麗宗の開祖がよく言われる、空最上人ではなくて、中華から来た漢人である嵐真という一種の『宗教キチガイ』によって作られたということです。


 現代のエッセイにも華麗宗は残っています。

 横浜市鶴見区に苦災寺という仏閣がある。中世に光明法師という荒僧が建立したもので、時の政権から『荒ぶる戦いの仏』として手厚い保護を受けていた。ご本尊は不動明王である。この寺の宗派は華麗宗である。そう、あの萬願亭極楽丈が日常という名の僧侶であった時に修行した二王寺が総本山の末寺である。なので昔から萬願亭一門と親交が深い。この寺で道楽が復帰独演会を務めることになった。それはそういった理由からである。


 だそうです。というわけで、華麗宗はいまも私たちの生活に溶け込んでいるのです。

 では。

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