②不快害虫、消ゆ

 客のいない夜9時35分、厨房は阿鼻叫喚の巷と化していた。こいつ飛ぶなんて聞いてないんだが。

 唐突に迫り来る害虫の奇襲攻撃。


「うぇっ」


 とっさに身をかわしたが、高速飛行する黒い影が肩の辺りにかすったようだ。


「熱っっっ!!」


 一瞬の衝撃に、持っていたバーナーが手から落ちる。

 長時間バーナーで炙っていた熱を吸収してゴキブリの身体は超高温になっていた。制服のシャツのかすった辺りが傷痕のように破れ、穴の端が焦げ始めていた。

 幸い、私のすぐ近くにシンクがあった。急いで燃えつつある患部を冷水で流す。やはりシャツに穴が開いていて、私の皮膚が火傷しているのを確認した。

 ゴキブリが向かっている方にはふみちゃんがいる。


「ふみちゃん!大丈夫!?」


「うぅ゛ぃ゛ゃ゛あ゛あ゛ぁ゛っっっっ!!!!!!!!!!!!!!!」


 理性を持った人間ではない、野生動物の咆哮を思わせる絶叫。すでに自己防衛本能のスイッチが入っているのか。

 その豹変ぶりに面食らっているのはこっちだ。

 ふみちゃんは床に転がっていたバーナーを反射的に掴んで、ノズルを虚空に向けて炎を振りかざしていた。


「ふみちゃん落ち着いて!それ振り回したら危ない!殺虫剤じゃないんだよ!?」


「ブッ゛ッ゛ッ゛チ゛殺してやるぞぉ゛ぉ゛あぁ゛あ!!?!??!?!どこにお゛るねんや゛ぁ゛ぁ゛あ゛ん゛??!?!?!?」


 その行動は、ゲリラ戦で見えない敵に無駄撃ちするアクション映画のモブと本質的に同じだ。声の出し方も似てるな。

 接客の声が小さいと店長に怒られて更に萎縮してしまった気弱なふみちゃんらしくない。


「あの、一応ここ厨房...」


 カチッ、カチッとトリガーを引く音だけが聞こえ、遂にバーナーから炎が出なくなった。


「っ゛っ゛......!?!??!!??」


 ガス欠である。

 火も出ないのにカチカチするのが虚しくなったふみちゃんはバーナーをカウンターに置いて、やっと正気に戻った。


「......」


 へたり込みそうなふみちゃんを支えて背中を擦って落ち着かせるのがやっとだった。こちらもショッキングな出来事に相当疲弊している。



 喧騒から一転、静寂が訪れた。

 客足の少ない平日は、厨房の換気扇や冷蔵庫の動く音がよく聞こえる。無機質な環境音は私達の頭を少しずつ冷静にした。




「ゴキブリ、消えましたね。」


 ふみちゃんの言葉で私は思い出した。

 大騒ぎしていた時、店内から外へ通じる扉は全て閉まっていた。換気扇には防虫網があるため虫が出ていくことは出来ない。まだ脅威ゴキブリは私達のフロアに閉じ込められているのだ。

 

「...どちらかと言うと、今の状況は想像以上に深刻みたいだ」


「...そのようですね」


「物陰に隠れたのか、完全に見失っちゃったな。次に何処から現れるのか全くわからない。」


「...探しましょう。あいつをぶっ殺すまで安心できないです」

 

 そう言ったふみちゃんの表情からは恐怖に対して理性で戦おうとする人間の意志を感じた。いつになく真剣で、真っ直ぐな瞳。

 もう“頑張ってはいるが頼りない”ふみちゃんではなかった。冷静に困難に対処しなければならない状況が彼女の勇気を成長させたのだろうか。

 シンクにある洗い桶をひとつ、マグネットで別の洗面台に付いているゴミ箱をひとつ取り、洗い桶の方はふみちゃんに渡した。


「見つけたらこいつを上から落として捕まえてほしい。奴等ゴキブリは叩き潰して殺すと死ぬ寸前に卵を産むから、踏まないように気をつけて」


「了解です」




 夜9時40分。厨房からホールに出て入り口のロールカーテンを下ろして一時的に店を閉めた。

 これ以上、クソ気持ち悪い虫螻蛄野郎の好きにはさせない。捜索開始である。

 物影を調べるように私は中腰になった。ふみちゃんは厨房、私は客席をゆっくりと巡回する。

 人間対ゴキブリ。動体視力、集中力、瞬発力の勝負...それだけではない。知恵と勇気で勝つ戦い。

 暖色系のスポットライトが天井からあらゆる物体を照りつける。ゴキブリ一匹が隠れそうな物影は至るところに散見される。隅々まで見渡そうと首や体を左右へゆっくりと回転させた。




 視界の端で一瞬、影が動いた。

 即座に反応して目だけを動かして見ると、エプロンの紐の影が振り子のように揺れ動いていた。気が散って邪魔なのでエプロンは外して近くの机の上にかけておく。再び目線を床に落とし、警戒しつつゆっくりと捜索を始めた。




 一巡してみて改めて実感したが、飲食店というものは得てして目の届かない隙間というものに事欠かない。ソファーの下。冷蔵庫の後ろ。ビールサーバーやレジの台の空間。

 こういう場所にはゴキブリが隠れていると思えばそう信じてしまうが隠れていないと思えば納得してしまうので埒が明かない。所在を確認する為には多大な労力を使ってソファーなり冷蔵庫なりを退かすしかないのだが、この間に奴が別の場所へ移動したらどうするのか。

 シュレディンガーのゴキブリである。

 だろうゴキブリ。かもしれないゴキブリ。

 視線を上げて壁とか天井を探そうと思ったら更なる集中力と根性が必要だ。床よりも面積が広いうえに照明の裏とかエアコンの中など何処にでも隠れられる。

 これから何時間、気の遠くなるような忍耐を続けられるのだろうか。八方塞がりじゃないのか。


「メガさん」


「なに、見付けたの!?」


「いやこっちでも見つからないんですけど」


 なんだよ!!!




「いま何処に隠れているか分からなくても、特定の場所に誘導したり出来ないかな~と思ったんですよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る