4:外

「大丈夫、迎えに来るよ、必ず」


「わたしは…こうしてたまに話せるだけで…」


 話せるだけでいいのに…そう最後まで言えないまま、彼は背を向けて飛んでいってしまう。

 暗闇の中だったら周りに溶け込んでしまいそうなほど真っ黒な翼をはためかせて、どんどん小さくなっていく彼の姿を見て、わたしは小さくため息を付いた。


 はじめて…彼の背中を見たななんてぼーっと考えて、それから家人に呼ばれてご飯にありつく。

 ぼーっとしていたからか、今日は姉弟たちの声も耳に入る端からどこかへ消えるみたいに頭の中に入ってこない。

 どうしよう…もし彼が夜、わたしを本当に迎えに来たら…。

 

 答えが決まらないまま丸い月が空高く登って、そして何も起こらないまま時間はすぎていく。


「やっぱり…冗談だったのかな」


 がっかりしたようなホッとしたような複雑な気持ちで、叩かれることのなかった窓を見る。

 もう一度、月に照らされていつもよりも明るい夜空を見て、ため息をついて、今更ながら寝ようと背を向けて、違和感に気がついてもう一度窓の外に目を向ける。


「あれは…」


 雲ひとつない夜空にあったのは小さな黒い点。目を凝らしてないとわたしでもみのがしてしまいそう。

 ふらふらとよろめきながら飛んでいるそれはこちらに近付いてきていた。

 彼だ…そう思って窓際へと走っていく。ふらふらの彼がここまで来たらちゃんと迎えてあげられるように…。

 そこまで考えて自分には窓すら開けられないことに気がついて心臓が急に冷たくなった気がした。


「どうしよう…」


 誰に対してでもない言葉が口から漏れた。そして、頼りなく空に浮かんでいた黒い小さな点が、急に後ろからきた一回り大きなモヤモヤを纏った黒い点に当たって落ちていくのが見える。わたしの口からはもう一度「どうしよう」という言葉が漏れていた。


 彼らしき点が落ちた場所…多分あそこは病院へ行く途中に車の窓から見たことがある。

 多分、あの辺りには噴水がある公園があるはずだ。建物と建物の間に落ちたみたいだから…多分その公園に行けば彼に会えると思う。

 なんとかしないと…。

 焦っていたけど、体は自然に動いていた。

 まだ灯りのついているあの人たちの部屋に飛び込むと、こんな夜更けに出歩いているわたしを珍しがった姉弟たちの視線が刺さる。

 でもそんなこと気にしていられない。


 わたしの居場所を作ってくれていた彼。

 わたしの心の中に居着いていた彼。

 なんとかして、地面に落ちた彼を助けないと。それだけで頭がいっぱいだった。


 夜のこの時間…いつも部屋に閉じこもっているけど、朝と夜、外へ続く扉がある部屋が慌ただしくなることも、外へと続いている扉が開くことも知っている。

 予想通り家人の一人は、珍しく部屋に訪れたわたしのことなんて気がついてないみたい。慌ただしくキッチンで水仕事をするのに夢中だ。


 たぶん、もうすぐ外へ続いてる扉が開く。

 外に出たことなんて…病院へ行く時くらいだし、道もよくわかってない。

 でも、このままあの部屋に閉じこもってたら、彼とは二度と会えない。そんな気がした。


 姉弟たちの話し声や、家人たちの会話、テレビの音声…いろいろな音は透明な壁を隔ててるみたいに遠くでぼんやり聞こえる気がするけど、壁掛け時計の音だけがやけに鋭く頭の中に響く。

 チャイムが鳴って、コーヒーカップをシンクに置いた家人がドアノブに手をかける。それに合わせて、わたしは床を蹴って全速力で走り出した。


「あ…待って。あなた、大変。メイが外に…」


 背後で甲高い慌てた声が聞こえる。

 わたしは振り返らない。

 わたしを保護して守っていてくれた人たちを恨んでいるわけではない。だから小さな声で「ごめんなさい」と届かない謝罪を口にして、走り続ける。

 慣れない外の硬いアスファルトを蹴って、人の間をすり抜けて彼が落ちたであろう場所へ進む。

 あの納屋代わりの部屋わたしのたった一つの居場所は、比較的街が見渡せた。

 くっきり見えたわけじゃない。でも、ぼんやりと見えた建物の形からなんとかそれっぽい場所を目指して走っていく。


 家の外は酷い匂いがして鼻が曲がりそう。

 煙を吸い込むと喉がイガイがして、捨てられたゴミがわたしの頭にぶつかって転がっていく。

 見知らぬ子たちがわたしをみるなり罵倒してくるけど耳を貸している暇はない。

 硬い硬いアスファルトの上をひたすら走った。


 この道の向こう側だ!

 走りっぱなしだったからか息が苦しい。こんなに走ったのは多分生まれて初めてだし、家の外に出るのも初めて。

 

 嗅ぎ慣れない緑と土…そして花の香りがする公園に向かうためにわたしは人の合間を縫うようにして進み、左右を確かめずに道路へ飛び出した。

 

 飛び出してから、わたしは猛スピードで走ってくる車の存在に気がつく。

 低く響くモーター音。パーッと光る化物の目玉みたいに大きなライト。

 驚いて足を止めてしまう。止まっちゃ駄目だ…そう思ったときには、もう目と鼻の先に車のボンネットが近付いていた。

 

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