劫火の女
日野まち子
第1話 逃亡
「走れッ、走ってください、姫!」
轟々と炎が背を炙っていく。絢爛華麗だった彼女の桃色の身衣は黒く、哀れに煤で汚れ、あのとき淡く、ぽつぽつと散った光の影もない。
「いや、いや!もう、いやよ!」
切れて血の滲んだ唇の端から、彼女はついにそう溢した。だらんと垂れ、促されるままだった細く滑らかな手首がようやく、意思を持って、手を引いていた大きな存在を拒絶した。
ぱちん、と小さな、しかし確かな音が鳴る。
「もう嫌、もう嫌なの…無理なの、こんなのってないわ」
「姫、今は!」
「今なの!今じゃなきゃいつなのッ!?いつかなんてない!」
ここで終わりなのよ!ユガ!
血を吐くような叫びが、ばちばちと火の粉を噴く火炎の中ではっきりと輪郭を現した。大粒の水が頬を伝って地面に落ちる。
ユガは、大きな女はそれだけで世界の炎が沈んだように思えた。彼女の涙は、ユガにとって何よりも大きな大きな川。ユガにとって、彼女のすべては、すべてだった。
流れる水、心地よく、すべてを許し、時にぱちゃりと無邪気に跳ね、ユガを静かに包み守っていた。
あなたは、私を守ってくれる善いひとね。だから私、あなたを守る良いひとになりたいわ。
嫋やかに花笑んだ彼女を抱きしめたら、くすぐったそうに身じろいだ。長いユガの髪を丁寧に梳いて、心底愛おしそうに口付けるあの姿を、ユガはすっと冷たくなった胸の裡で想った。
擦り切れ、ぼろぼろになっても、彼女の瞳は満月のようで美しい。俯いていた月はユガをゆらゆらと映した。
「ヤースラ、こちらへ」
一度ユガの角ばった手を振り払った彼女は、案外簡単にすっぽりと、広げられた腕の中に落ち着いた。
「うう、う、ううう」
「ヤースラ、あなたに謝らなければいけない」
なんで。ヤースラと呼ばれた少女は不思議そうに見上げた。ばちんと火花が散り、ユガの体をひとつ、またひとつ蝕んでいく。
ユガ、あなた。そう言いかけたヤースラを、ユガは小さく笑って火から覆い隠した。
「私は、あなたが思うほど、善いひとではない」
先ほどまで、限界まで張った弦のように鋭かったユガの声が花を愛でているような穏やかな声に変わっていることに、ヤースラは焦りを覚えた。
いけない、ユガが死んじゃう。死ぬのは私だけでいいの。その言葉がどう足掻いても喉の奥でつっかえて出てこなかった。ヤースラは、ひとりで死ぬことをとてもとても恐ろしく思っていた。
「何を言っているの?ユガ…!」
「ヤースラ。ラトゥナ王国第三王女よ。私は、あなたのためには生きない」
ヤースラは、突如自身の心の臓が切り裂かれ、血と炎の渦の中に倒れこむ自分を幻視した。熱いのに、冷たいなか、ひとり寂しく凍え焼け死んでいく哀れな自分。
それでも、それでも。彼女は唇を噛んだ。それでもいい。とても怖い、恐ろしいけれど、ユガが、このひとが私のために死んでしまうなんて、死んでも耐えられなかった。それほどまでに、長い時間をかけ、心の底からこのひとを愛していた。
「いいのよ…もう、お行きなさい。私のためにあなたが死ぬなんて、いやだもの」
「はい、私も嫌です。死ぬのは真っ平御免です」
ユガは抱きしめていた腕を緩めた。微笑んだまま、腰に携えていたとっくに刃も欠けた鈍らの短剣に手を伸ばす。ヤースラは瞼の裏に炎よりも赤い、その瞳を焼き付け、ゆっくりと目を閉じた。足元を炙っていた炎など、取るに足らない些細なことだった。
「私は、あなたが思うよりずっと、あなたを大事に思っている」
ばっと目を開けたとき、舞っていたのはヤースラが梳いたあの美しい髪だった。鈍らに乱雑に切られながら、炎の中で広がった涅色の髪は艶やかに輝く。あ、と咄嗟に伸ばした手は、血で乾いたユガの手がもう離すまいと強く捕まえられた。
「私も死にたくありません。こんなところで、二人で焼け死ぬなんて、怖くてたまらない」
「ユガ、」
「もうあなたのためには生きない。これからは、私のために生きるのです。あなたの意見など聞きません、私の人生だから」
ユガは彼女の手を引いてだっと駆けだした。ヤースラは、大声で泣きだしたい気持ちに駆られ、同じように走り出した。もう振り向かなかった。
「世界中の人が、あなたを悪人だと言っても、私には関係ない。あなたが、あなたを悪人と言っても私には関係ない。私は、私がやりたいように、あなたと生きたい」
身の丈ほどの大刀を片手で振るい、炎を退けていく。鬼神のようにすべてを壊しながら進む二人は、まるで悪で、決して善くなかった。
ユガは、ユガのためにヤースラと共に生きる道を選んだ。
ヤースラは、ヤースラのためにユガと共に生きる道を選んだ。
劫火の女 日野まち子 @machiko131112
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