クランドの水浴び ~くるりもあるよ~

 クランドを出せる場所は、限られている。

 例えば宿屋さんの部屋。ここなら鍵をかけられるし、安全だ。

 次に、移動中の平原とか、森の中。

 セシルさんに聞いて、大丈夫そうだったら鞄から出してあげられる。


 コウモリみたいな羽をぱたぱたさせるクランドは、かわいい。うっかり頬が緩む。

 今は宿にいるため、水桶を借りてきた。えへへ、水浴び用だ。


「クランド、きもちいい?」


 水桶のへりにだらりと垂れ下がり、クランドが水に浸かっている。

 勿論タオルの準備は万端だ。部屋を濡らしたり、汚したりしたら、大変だ。

 それでも、クランドののほほんとした平和そうな顔は、見ていて和む。

 時折体勢を変えてくるりと回るのに、結局元の体勢に戻るところも、かわいくてたまらない。

 ひんやりとした背中を撫でた。長い尻尾が桶におさまり切らず、ぺろんと垂れている。


「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、セシルさん」


 ぱたん、鳴った扉が細身の青年を招き入れる。彼がやんわりと微笑を浮かべた。

「ただいま」と「おかえり」の関係が成立している現状に、心の中で感動に震える。師匠ではあり得なかった話だ。


 セシルさんは、こうして度々どこかへ向かう。

 尋ねてみたけど、「本部へ定期連絡です」といわれて、さっぱりわからなかった。

 本部って、セシルさんのいっていた、騎士団のことかな?


「セシルさん、騎士団って、どんなところなんですか?」

「そうですね……困っている人を助けたり、悪い人を取り押さえたりするところ、ですかね」

「ふうん。お巡りさんみたいなお仕事なんですね」

「アストロネシアでは、そのように称するのですか?」


 小首を傾げるセシルさんは、普通にしていたら温和で丁寧でのんびりした人だ。普通にしていれば。

 僕のいたアストロネシアと、この国ヴィルベルヴィントの違いも、いろいろと教えてくれる。


「僕は実際には会ったことがないのですけど、ドー……知り合いの人がそう称するので」


 ドーリーさんがいつも『お巡りさん』と呼んでいるので、僕もすっかりその呼び方に慣れてしまっていた。


 僕の住む町は小さいので、駐在さんもいない。

 代わりに、町長の息子さんがその役を担っている。

 はじめはこわい人だと思っていたけど、話す内にちょっとぶっきら棒な人なのだとわかった。

 師匠の薬を届けに行ったりすると、いつもお菓子をくれる。

 わかりにくいけれど、親切なおじさんだ。


 ネーヴェの町を思い出してしまい、センチメンタルな気持ちに陥る。


 師匠、元気にしてるかな?

 僕のこと、気付いてるかな?

 また昼夜逆転生活してないかな。師匠は本を読み出すと、周りが見えなくなるもんな……。

 ごはん、ちゃんと食べてるかな?

 掃除……はしてなさそう。荒れ果てる前に帰りたい。本物の廃墟になってしまう。


 ドーリーさんがいるから、多分大丈夫だと思うけど……。ドーリーさんの滞在期間、いつまでだっけ?


 あっ、プリンと茶葉、預けたままだった!

 町長、誘拐に警戒してくれるかな? 過疎地なせいで、真ん中の若い層が少ないんだよな……。オリバーさんが張り切ってくれたらいいのだけど……。

 みんな、元気だといいな。無事に帰れたら、メルさんにもこのこと話しておこう……。


 ……師匠。師匠に会いたいです。

 無事に帰れたら、おかえりって、いってください。

 最後までサイレントなんて、いやです。


 泣きそうな気持ちで俯いてしまう。

 帰りたい思いが、ぐるぐるお腹の中で喚いている。

 そっと頭を撫でられ、慌てて顔を上げた。セシルさんが困ったように微笑んでいる。


「すみません。悲しませるつもりは、なかったんです」

「いえ! 大丈夫です。この年でホームシックだなんて、恥ずかしいですよね!」


 無理矢理笑顔を作って、クランドを水桶から引き上げる。

 ざばりと雫を垂らす身体を、乾いたタオルの上に置いた。わしわし拭うついでに、クランドのお腹をくすぐる。じたばた、短い手足が暴れた。


「じゃあ僕、これ返してきますね!」


 水桶を抱えて、セシルさんへ笑顔を向ける。

 困ったように眉尻を下げる彼へ背を向け、急ぎ足で部屋を出た。


 ――セシルさんは優しいけれど、本当に信じていいのかな?

 彼の前では、考えてはいけないことを考える。


 なんか変な首輪つけられたし、衣食住を無償で提供するなんて、どういう娯楽だろう?

 僕にかかったお金は、経費になるのかな? それともセシルさんの実費?


 騎士団がアストロネシアのお巡りさんだとして考えてみても、お巡りさんは生きものを預かってくれない。

 セシルさんは僕を『保護』している責任があるらしい。

 それは、僕がまだ未成年だからなのかな?

 ヴィントの成人はいくつからだろう?

 ……わからない。


 でも、セシルさんは親切だ。物腰も柔らかで、尋ねたら答えてくれる。

 疑いたく、ない。


 宿の女将さんに、お礼を述べて水桶を返す。そのまま来た道を引き返した。とんとん、階段を上る。

 部屋番号を確認して、ドアノブを掴む。

 一度深呼吸してから、ノブを回した。

 びたんっ、顔面にひんやりしたものが張り付く。首ががくんとなった。


「ふふっ、おかえりなさい。アオイくん」

「……ただいまもどりました」


 短い手足を懸命に駆使して、僕の顔に飛びついたのはクランドで、セシルさんは笑いを噛み殺しながら新聞を開いていた。

 クランドを首に巻きながら、部屋に入る。

 水浴びに使ったタオルは丁寧たたまれ、重ねて置かれていた。


「す、すみません、セシルさん! タオルありがとうございます!」

「ああ、お気になさらず」


 優雅に微笑むセシルさんが、何てことない仕草で新聞をめくる。

 はわわ、震えた。クランドの頭を撫でながら、感激した。

 タオルをたたんでもらえたことも、「おかえり」といってもらえたことも、僕にとっては感動の出来事だった。

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