第6話 時の流れ(中編)
夜中になって、それは現れた。
令嬢もエリップスくんも、ぐっすり眠ってしまったあと、部屋のすみに赤い影がよぎった。期待はしていなかったが、エリップスくんはなんのための見張りかわからない。
ソルティレージュは魔物が令嬢の純潔を奪いに来たのだと思った。自分もそうだが、とにかく一角獣は処女の肌が何よりも好物なのだから。毎晩のように寝室に現れるのも、それが目的だろうと。
「おい、おまえ。何者だ? おれの仲間か?」
ソルティレージュがたずねても、赤い影はおぼろな馬の形のまま動かない。たしかに令嬢の言ったとおりの姿。赤い毛並み。緑の目。白い角。一角獣である。
「おれは白銀のソルティレージュ。さあ、こっちが名乗ったのだから、おまえも名乗るのが一角獣の礼儀だぞ」
すると、ようやく反応があった。
「わが名は……キプロコ」
「キプロコか。聞いたことのない名だな。おまえ、令嬢に
キプロコは赤いたてがみを炎のように舞いあがらせる。怒っているようだ。
「裏切った……レールデュタン。永久に私を愛すると……誓ったのに」
「永久にねぇ。そんなの、おれたちのほうがムリじゃないか。相手が処女でなくなったら」
キプロコは軽蔑したような目でソルティレージュを見て、ゆらぐように消えていった。
翌朝。
「つまりね。魔物はあなたと先約があるので、あなたの結婚を快く思っていないのですよ。あなた、何か心当たりはないの? レールデュタン」
ソルティレージュが問いただしても、レールデュタンは首をかしげるばかりだ。
「わたし、エリップス以外とそんな約束したことないわ。人間はもちろん、魔物とも」
とうのエリップスくんは昨夜、気持ちよく寝てしまったので落ちこんでいる。
「子どものころにも? あなたは忘れてしまっても、魔物は時間の感じかたが人間とは違うから、昨日のことのように思っているはずですよ」
「いいえ。絶対にありません。あんな不思議な生き物のこと、どんなに時間が経っても忘れるはずがないじゃありませんか」
それは正論だ。
ましてや、レールデュタンは知性のきわだつ令嬢だ。かんたんに忘れてしまうような娘ではない。
「すると、どういうことかな。どうも納得できない。私はちょっと調べものをするために留守にします」
「あら、どこへ行くの? わたしを守ってはくださらないの?」
「あの魔物はあなたを傷つけることはできないでしょう。まあ、てっとりばやく魔物と縁を切りたいなら、方法はありますがね」
「どうするの?」
ソルティレージュはレールデュタンの耳元に唇をよせて、ささやいた。
「乙女でなくなるのです。私が手伝ってあげてもいい」
ふうっと甘い息吹を吹きかけると、レールデュタンはクラクラしたようすだ。一角獣の吐息は処女の血を熱くたぎらせる力があるのだ。
「ええ、でも、そんな……」
「大丈夫。何も怖いことはない。すぐに帰ってくるから、今夜、どう?」
「いいえ。でも……ああ、なんだか、わけがわからないわ」
「じゃあ、そういうことで」
ぼうっとしているレールデュタンを残し、ソルティレージュは伯爵邸を出た。人に姿を見られないところまで来ると、一日に万里を駆ける一角獣本来の姿に戻って走りだす。むかったさきは、じつに懐かしい二百年ぶりの古里。深い地の底の闇のなかにある魔界だ。
あいかわらず、魔界は騙しあいや殺しあいに忙しいようだ。闇にうごめく魔物たちが幼稚にさわいでいる。
が、景色は美しい。
人間の世界より、ずっと神秘的で幻想的。
大地も空も水も、何もかもに生命が宿り、ときには一日で風景を変えてしまう。深い森や静謐な湖。咲き誇る禍々しい妖花。熱したソーダ水のような海。毒を噴く沼。オーロラのカーテンが重厚な雪原。
それらを照らすのは、十の色の違う月。今日はソルティレージュの好きな銀色の月が、まぶしく闇を切りさいていた。
「おーい、ソルティレージュじゃないか。懐かしいなぁ。おまえ、ずいぶん姿を見なかったが、どこに行ってたんだ?」
仲間を探して駆けていると、さっそく匂いをかぎつけて、一角獣がやってくる。ソルティレージュは角をこすりあわせて、一頭ずつにあいさつした。
「うん。人間界にいたのさ。あそこはおいしい処女が食べほうだいだからな」
「まったくな。おれもこの前、行ってみたが、いい味の娘がいたぜ。じつに愛らしい娘だった。おれは、あの子が幸せになるように、金の卵を生むガチョウをくれてやったんだ」
「そりゃ、大盤振る舞いだな。ところで、キプロコってやつのことを知りたいんだが」
「キプロコ? 聞かない名前だな」
一角獣たちはいっせいに角のある首を傾ける。
「レールデュタンって娘に執心で、人間界にいるんだが、どうもおかしなやつなんだ。気に入りの娘の寝室に入って、何もしないで帰っていくんだ」
「そんなやつがいるのか? 変だな。おれたちの愛情は、どうせ一瞬のものじゃないか。永続させようとすると、かえって不幸になるとわかってるのに」
永遠の愛のために命をなげた兄を思いだして、ソルティレージュは目をふせた。
「そうなんだ。一角獣が愛をつらぬこうとすると、不幸になる。あいつも命を落とすつもりなんだろうか?」
「さてね。それにしても、おれたちは、そいつを知らないよ。ほかの群れの仲間にも聞いておいてやるから、あとでまた会おう」
「よろしく。おれは東のほうの仲間に会ってくる」
「じゃあ、おれたちは西だ」
こうして一日中、仲間を訪ねてまわったが、キプロコを知っている者はいなかった。
「これだけ聞いて、誰も知らないなんて」
「一角族の長老にまで聞いたのに、やっぱり知らぬと仰せだった。ほんとに、そんなやつがいるのか?」
「ところがいるから困っているんだ。まあ、いいか。あいつをしめだす手立ては整っている。みんな、ありがとう。おれはまだ、しばらく人間界にいるよ」
「元気でな。気がむいたら会いに行くよ」
仲間たちと別れて、人間界に帰ってきた。伯爵の城についたのは、日暮れ前の西日がまぶしくきらめく時分だ。レールデュタンは彼女の寝室の鏡台の前で、晩餐のための身づくろいにいそしんでいた。
「ただいま。時の流れのように深遠なレールデュタン。約束どおり帰ってきたよ。晩餐には、まだ時間があるね」
鏡のなかには、妖しいほどに端麗なソルティレージュのおもてが映っている。それを見つめる令嬢の頰は、みるみる西日よりも濃く染まった。
「やっぱりダメよ。わたしにはエリップスがいるんだもの……」
「魔除けだと思えば許してくれるさ。それとも、私が嫌い?」
「嫌いじゃないわ。でも……」
ソルティレージュが背後から彼女を抱きしめると、彼女の心臓が激しく脈打っていた。
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