3 沈んで欲しくない太陽
あの2人は他に用があるから、と仲良く肩を並べて別の家路についた。俺と言えば一人でいつもの家路を辿っている最中だ。
しかし、あの2人昼休みに妙なことを言っていた。あの娘へのアッタクを止めるな。なんていつもの2人には聞きなれない言葉であった。いつもなら、その恋は無理だ、だの、高いところ狙いすぎ、だの否定することが多かった。自分でもわかってる、めんくいであることは。しかし、かわいい娘じゃないと何かが伴ってこないような気がして嫌なのだ。
それに、何処か寂しそう、なんて。それくらい誰でも待っている雰囲気なんじゃないのか。と疑問に思ってしまう。それに人のことを気にしすぎじゃないかと思う。あんたは人のこと気にならなさ過ぎ。いつかの越前の言葉だ。確かに俺は自分のことばかり気にし過ぎて人のことを見ていないのかもしれない。
見慣れた風景を後ろにし、横にし、それからまた前にする。見慣れない場所なんて何処にもない。何一ついつもと変わっていなかった。しかし、それは自分の思考の範囲内だけであった。
目の前には彼女が一人、今日もまた本を片手に帰っている。彼女の足取りはとても不安定で越前、それから齋藤の言葉がよく似合う足取りだった。だれにも助けを呼んだことのなさそうな。そのか弱い足にはどれほどの体重が掛かっているのか。俺はきっとそのことなんて知る由もない。
自然と彼女の歩くスピードに合わせてしまう。いつしかその距離は近くも遠くもなかった。足音だけが異なった音を鳴らしているだけで、それ以外は全てシンクロしているかの様な錯覚に陥る。自分は、俺は、彼女の後ろを追いかけている。このまま何もしなければ帰り道のシンクロが解けてしまう。それを考えると自分の足は興奮した。まるで、足だけが彼女の元へ行ってしまいそうなくらいに。
急かすように鼓動が速くなる。しゃべってもない、関わったこともない、ましてや彼女に知られてもいないのに勝手に緊張する。俺は自分の脚が固まっているのか、それとも柔らかくなりすぎて感覚がなくなってしまったのか頭の中でパニックを起こしていた。
話しかけるか
なにを血迷ったのか自分にはできそうない無理難題が自分の内から出てきた。
この際だ、2人も言っている。ちょっと話しかけるぐらいいいじゃないか。
でも話題はどうする。知らないものどうしの沈黙なんて、この世の終わりぐらいに気まずい。家に帰っているが死にたくなってくる、か。それぐらい自分には難しい。というか、やりたくない。もしも彼女がキモいなんて思ってしまえばきっと俺のことを嫌がるに決まっている。そうなれば急に応援してくれたあの2人にもどうにも申し訳ないし、自分のことがますます嫌になる。自分が許せなくなる。それに、恥ずかしい。これだけはどうしても変わらない。自分がイケメンであっても絶対的に克服できない点であろう。
しかし、声を掛けなければそれはそれで失敗に終わるかもしれない。うじうじ悩む暇があったら失敗してもいいから声を掛けるべきだろう。
何の本読んでのかな
聞いても返しが見当たらない。見当たらないどころか本をまともに読んだのもずっと前だ。本を読むという感覚が何処か遠くへ行ってしまっている気がする。本は言われてもわからない。それが一番の答えだ。
気が付けば足はシンクロを自ら止め速くなっている。反射的に自分の脚を見てしまう。我が身を疑う程に自分のからだが自分じゃない気がするのだ。一体何を話しているかすらもわからない。着々と自分の脚は地面を踏み、鳴らして彼女の背中に追いつこうとする。
嫌だ。昔、母親がいない感覚を思い出した。このムズムズとした感覚、今の今まで忘れていた。しかし、何処か懐かしい感じもする。抗えば抗うほどにその度合いは増していくように感じられる。嫌だ。恥ずかしい思いはしたくない。嫌だ、嫌われたくない。
涙が出そうだ。嘘だ。自分の脚よ!止まってくれ!
「ねぇ、本読みながら歩いてるの危ないけどさ。何読んでの?」
終わった。地獄の始まりだ。自分一言多い。
彼女は困惑した顔を上げた。自然と手と本が急降下する。本が落ちてしまうくらいに速く。自分は凝然と彼女を見る。
一向に変わらない彼女はやっと首を傾げ「誰ですか?」と丁寧に聞き返す。
冷静に見ればそうである。知らない男から声を掛けられたかと思えば本のことを尋ねてく。完全に不審者扱い必須である。見慣れた制服だけが警戒心を緩めてくれる唯一の頼りになるやつだ。しかし、憶えていないのだろうか。俺の顔を。
「そうだよね、ごめん。俺…僕は2年の伊藤薫って言うんだけど。鈴村さんだよね?」
彼女に自己紹介をする自分が何処か可笑しかった。あ、俺、鈴村さんとしゃべっている。そんな腑抜けた感想が頭の中でビデオテープのように回転し再生される。まるで自分は観客の気分だ。
おかしい内面を知らず彼女は困惑気味の顔で「あ、あのときの」、と答えた。若干詰まった感じであった。
「ごめんね、今も前も急に声掛けて。いや、ほら、一人で帰ってるから、帰り道も同じだし一緒に帰りたいなー、て思って…」
語尾にかけて弱まっていく声量。こんなにも声をはっきりとして人と話したのは何時振りだろうか。おかげで、どうしても息が続かない。途中で苦しくなってしまい息継ぎがどうしても多くなってしまう。
彼女は小さく息を漏らし笑った。かわいい微笑が俺の視界の真ん中で捉えられる。口を手で覆い片手で本を持つ、そんな姿を見ると本当に普通の女子高生なのだと思わされる。自分は半ば他人行儀に彼女の微笑を見つめていた。
「伊藤、先輩?ふふふ、なんか面白い先輩ですね。」
「おもしろい?そうかな、まぁ、褒め言葉として受け取っておくよ。」
「お世辞じゃないですよ。いや、本当に面白い先輩だな~て」
「そうか、それならいいんだけど。ハハ」
話のテンポが良く進んでいるのか時間が経つのが速く感じる。笑いながらお互いに目を合わせる。互いが互いの事情も知らずに勝手に共鳴し始める。彼女の目は確かに2人が言う何処か寂しそうな目をしている。涙は十分に流し、その目に溜めたはずなのにまだ足りない、そんな目だ。なにかあったのだろうか。鈍感で人を思わない自分がこんなことを思うのは少し筋違いに感じた。でも、それでも彼女のことが知りたくなった。なってしまった。
「その本は?」
「あ、この本ですか?」
さっきの笑顔とは種類の違う輝かしい目でキラキラした笑顔が彼女から現れた。
「芥川龍之介の作品を少し読みたいな~て思って、最近読み始めたんです。」
芥川龍之介。反芻するうちにその原型はなくなっていき、終いには思考自体が停止してしまった。誰だ。その人。本を読む人の中では有名なのか。わからんな。
「ごめん。芥川…?その人、誰?」
彼女の目が意外の言葉を感じさせる光に一瞬変わる。それでも、それはいつものことなのか丁寧な説明口調に変わった。
「芥川龍之介さんは文豪の中でも特に有名な人なんです!どこかで聞いたことありませんか?ほら、テレビとかで『芥川賞』て。聞いたことないですか?!それは、想定外だな…とりあえず、芥川さんの作風は少し変わっていましてですね。人間の…」
訳がわからない。普通の女の子からこんな饒舌に何かを語られたことなんてこれが初めてだ。呆然だ。顔には出してはいないのも(多分だが)本音を言えば何を言っているのかわからない。彼女と関わるのならこれぐらいには付いて行けるようになったほうがいいのだろうか。このレベルは行き過ぎる気もするが作家ぐらいは知っているようにしなくちゃならないな。さもなければ想像したとおりの世界の終わりが訪れる。
「というか、聞いてますか?」
彼女が少し怒った様子で俺を覗き込む。分からない話を聞いているうちに頭が自然とうなだれたようだ。その後ろには岐路があった。
ここでお別れ。そう思うと寂しく感じた。無茶苦茶勝手に言うのならばずっとこうしていたいのが本望だ。彼女のよくわからない話でも、少し膨れたこの顔もずっと聞いていたし、見ていたい。しかし現実はそう思うようにはいかない。彼女にとっては今日あった初めて名の知った先輩、いや人間ぐらいにしか捉えられていないだろう。初めから彼女の中で特別であろうなんて考えるのが間違いだ。傲慢だ。思い上がりもいいところだ。さっきまでずっと否定していたくせにちょっと上手く行ったくらいでこれだ。まったく嫌になる。自分をマジで殺したくなる。上げた筈の頭がまた下がる。
後ろを向く彼女と一緒にスカートの端が手を僅かだが広げる。それも彼女は俺に背を向けるとスカートの端は大人しく手を落とした。
「先輩、もしかしてこっちですか?」
彼女は右の道路を指差した。
それはまるで冷酷な裁判官が判決を下す様に思えた。残酷だ。非情だ。俺の心を無茶苦茶にしやがる。こんな事実見たくない。
「そんな露骨に肩落とされてしまうと離れづらいですね…」
彼女は面倒そうに足元を見る。暇になったその足は地面刺さったようだ。しかし、それもつかの間彼女はふらふらとその場を歩き回った。何かを考えているのだろうか。
しかしだ、彼女に面倒くさがられている。端的にことを終わらせねば。
「あ、ごめん…迷惑だよね…」
「いえ。私は楽しかったですよ。今日は大半を私がしゃべってましたけどね。」
目の前には彼女がいた。瑞々しいその肌には夕焼けの美しい光を反射していた。しかし、光の強さにも負けないくらいに彼女を見ていた。
「先輩は、その」
彼女は俯いた。
「楽しかった、ですか?」
夕焼けとは違う赤さが彼女の顔に浮かび上がる。俺には少し違和感があった。
「楽しかったよ、もちろん」
「良かった」
彼女は嬉しそうに口で手を隠しながら俯いた。髪が夕焼けを反射しているのか吸収しているのかわからないが綺麗な橙々から茶色へのグラデーションが出来ていた。
「初めて本でこんなにしゃべりました」
そうなんだ。彼女は相槌を待たずに続けた。
「あんまり、しゃべったことなくて。本のこと。最近本読まない人多いんですよね。何でかは知らないですけど。それで、自分の周りには本読んでいる人なんてほとんど居なかったんです。居たとしても、それは精々小学校までで。今日までこんな文豪やザ小説みたいなもの読む人なんてほとんどいないんですよ。時々居るとしても恥ずかしくて話しかけずにおわることも多いし、それに頑張って話しかけてもラノベがほとんど。それで、あんまり自分の好きなこと人に言わなくなって。そうしたら。何か自分を演じてる自分がいて、それで最近やなことが立て続けに起きて。もう、正直しんどかったんですよ。」
彼女は冷酷なアスファルトに吐き捨てた。これはまるで評判とは違う形をした何かだった。あの2人の言葉がここにようやく信憑性を帯びてくる。
目に少し涙を浮かべながらもそれを懸命に我慢している。
どんなことを経験したらこんな人間になるのか。自分にはおおよそにも見当が付かない。彼女の内面は最早は儚くといった綺麗な言葉とは逆の崩れ方をしている。それも自分で崩すのと他人に崩されるのが重なった感覚だった。
正直言って初っ端こんなことになるとは思ってなかった。重い、酷い。目を背けたくなる事実がそこらに転がっている。思わず目を閉じてしまう。普通の脳なし学生を送っていたらこんなことにはならないのに。
「でも、それも先輩の隣にいると忘れて夢中にしゃべってました。ありがとうございました。あの、それでお願いがあるんですけど。」
目を開ければ彼女は指先を唇に当て手を合わせていた。
「タイミングが合ったらで良いんで、これからも一緒に帰ってくれませんか?」
なんということだ。こちらのテレパシーがあっちに行ったのか。それとも、顔に書いてあったのをそのまま読んだのかはわからないが。相手側から所望があった。舞い上がらずにはいられない。
「え…俺でいいなら…」
「いいんですか?」
「うん…うん。」
最後ははっきりと発音した。
やった、小さく聞こえた。彼女の口から歓喜の声が漏れたことに少し違和感を感じる。
「それじゃ、先輩。また明日。」
軽く手を振りながら彼女は左へと歩を進める。
手を振りたかったがどうしても気になることがあった。
「あのさ」
彼女の足が止まり身体ごとこちらを覗く。
「名前。なんて、呼べばいいかな」
彼女は半ば疑問を浮かべてはいたものの少し考えてから口を開いた。
「鈴村でいいですよ。」
そうだよね。
「わかった。ありがとう。そう呼ぶよ。」
「それなら、先輩はどうします?何かあだ名でも付けます?」
どんな先輩いじりだよ。それ。
「あだ名?あだ名か…一応聞いておくか」
「そうですね…かほる?普通か。後は何だろう…じゃ、お香?いや違うな…だとしたら、貴族先輩。それか…」
どれも微妙だ。
「普通に伊藤先輩でいいよ。このまま行ったらとんでもないことになりそうだから。」
「なんですか?とんでもないことって。」
少し起こった声を出したが直にもとに戻った。
「それがいいです。しっくり来ます。あだ名。おいおい考えて行きましょう。」
そこは考えるんだな。なんとなくだがろくなあだ名がなさそうだぞ。
「それじゃ、伊藤先輩。また明日。帰れたら一緒に」
「じゃ、また明日」
彼女は左の道へと歩き始めた。
しゃべっているうちにもう陽は建物で見えなくなってしまった。
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