第9話 輝きは空腹に曇る

「くそったれ! 来るんじゃねー!」

 獣除けをボロは投げつけた。炸裂音と刺激臭が周囲を襲ったが、興奮した野犬には効果が薄く襲撃は阻止できなかった。

 叫び声と共にボロはナイフを構えてけん制する。獣相手に戦うには心もとないが、これしか彼に武器はない。天使たちが騒ぎを聞きつける危険性はあるものの、それを除外してまで対処できる問題ではなかった。

「ボロ!」

「聖女様! 俺は自分で守るから手助けはいらねえぞ!」

 無論、強がりである。

 偉丈夫の迫力に野犬は完全に怖気づき、飛び掛かったものも容易く無力化されていた。輪剣天使も、改めて間近でその力を見せつけられたのか攻撃することもなく呆気に取られて立ち尽くすのみだった。

 ボロはと言うと、2匹目の山犬にナイフを突き立てたところで血脂で手を滑らせ、刺さったまま逃げられて武器を失っていた。

死に物狂いで石を拾い上げて振り回すが、山犬に勝てないだろうことは容易に想像できた。

「なんとかする‼」

 それでもボロは聖女の助けを欲しなかった。命の危機でも貫くなら、それはもう立派な決意である。

 飛び掛かった一匹に道具袋を噛ませ、頭をあらん限りの力で殴打する。石の堅さもあって退避させることには成功したが、致命傷を負わせることはできなかった。

 野犬たちは益々興奮してボロを吠えたてる。

「きやがれ犬野郎おおおおお‼」

「うわあ……」

「あらあら」

 血まみれの両手に石を握り、雄たけびを上げる姿は狂人のそれである。興奮による疲労や痛みの鈍化はごく自然な人間の機能だが、外観が周囲の納得を得るとは限らない。

 このまま聖女の助けなしに戦闘を続ければ、いずれボロは野犬の餌食になったろう。万全な準備があっても、獣と人の争いで人が優位を得るには数の力を要する。

「モタン‼」

 しかし、運命は彼に味方したか、あるいはより苦境へと誘うことを決めていた。

 カマルをはじめとした天使たちが、輪剣天使・モタンの信号弾を認めて現れたのだ。ボロと聖女の姿に驚愕しつつ、新たな獲物を発見した野犬の襲撃に対処を迫られた。

 さらに素晴らしいことに、ボロに牙をむいていた数匹も天使たちへ矛先を変えていた。 

「行くぞお!」

 すぐさま山頂への逃走を決定したボロだが、冷静な判断は細部まで行き届いてはいなかった。興奮のためか、火を放ち、追跡をさらに妨害しようと火打ち石を叩き出したのだ。露を纏った草を燃料にしている上、血脂で手が滑り、間違っても十分な火種が起こせないと気付かない。

「何やってるのさあ!」

 ロールの叫びで我に返った時、ボロは山犬がすでに半分以上天使たちの手で撃退されている事実に気づき、脱兎の如く駆けだした。

 ナイフと、火打ち石も落とし、ついにボロには僅かな食料と雨除け、寝具しか残っていなかった。

 仮眠のおかげか、夜明けに至りボロ一行は猫の額ほどの山頂に辿り着いた。金鐘がなければ文字通り丸裸と言う危機感が、ボロの肉体精神を限界以上に保持させていたのだ。

 尚も追ってきた野犬の血肉で飢えを癒し、砕いた牙や爪、骨を武器にし、足裏を皮で巻いて少しでも疲弊を和らげた。

「どこだ! どこだ!」

「落ち着きなよお」

 血眼で憑かれたように喚くボロが、ロールには少々恐ろしかった。

「あら、あそこ―」

「言うなあ! 俺が見つけるんだ! あったあ!」

 聖女が指さそうとしたのをボロは制した。朝陽のおかげで金鐘は輝き、容易く発見することができた。

 ボロは転びながら金鐘に飛びつくと、膝立ちのまま高く両手で掲げて全身を太陽に浸した。流れ落ちはしなかったものの、歓喜の泉が両目に溢れている。ついに彼は独力で望みを叶えたのだ。

「最初にもらっておけばそれで良かったのにい」

「朝の食事にしましょうか」

 その感激を理解せぬ者もいた。難事が彼の意地である以上はそう評されても仕方がない。

「お久しぶりですよね」

 少女の姿に変じた金鐘が一行に挨拶した。ボロの格好には驚かされたらしく、数歩の距離を作り出していた。

「金鐘、色々あるけどまず……」

「お待ちを」

 金鐘はボロを制して武具に戻った。

「鳴らしてください」

 言われるままにボロが金鐘を振ると、心地よい音色が流れ出した。清涼な流水の如くにそれは肉体と精神に染み入り、弛緩させ癒していく。

「おお……」

「こういうことも出来るんですよね」

「すごい!」

 ロールは跳ねた。

「……うおっ!」

 癒しの音色に眠りかけていたボロは、突如金鐘を投げ捨てた。

「何をするんですよね?」

「わ、悪い。白い奴らだよ! 追われてるんだ!」

 謝罪しながら金鐘を拾い上げて、ボロは四方を警戒した。

「まずはお食事になさったらいかがですか? あなたも是非」

「もちろんですよね」

「あ、おい」

 ボロの抗議を無視し、金鐘とロールは聖女の鮮やかな米料理とスープに舌鼓を打ち始めた。

「どいつもこいつも……」

 狂おしいほどの空腹に襲われ、ボロは唾を溜めて呑み込んで迎え撃った。携帯食料と山犬の肉はとうに尽きている。

「金鐘! 飯も食うのか!」

「食べなくてもいいけど味はわかるんですよね」

「くそっ!」

「あなたの分もありますよ」

「うるせいっ! 絶対食わねえ!」

「馬鹿だよねえ」

「阿呆なんですよね」

 金鐘は、ここで彼らがどのような意志で動いているのかを察した。印象は言葉通りだが、必ずしも否定的な感情だけを抱いたわけでもなかった。

 滑稽とすら言える強い信念は、懐かしいものだったからだ。


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