第8話 忌避すべき慈悲
朝日が山を包む頃、ボロたちは半合目まで到達していた。速度だけなら相当なものである。
「あ、あと半分……」
「もう無理だよお」
「お食事と休養をとりましょう」
が、その代償は大きかった。ボロは疲労の極みにあり、文字通り一歩も動けなくなっていたのだ。
夜間行動は危険と理解していたのに、天使たちの襲撃が彼の判断を狂わせた。少しでも距離を稼ごうと無謀な行軍を続け、再度の襲撃に全く対応できない状況を自ら作り出してしまったのだ。
「だめだ……休まねえと……」
「どうぞ」
「いらね―」
差し出された食事に抗議しようとして、ボロは激しくせき込んだ。魚の丸焼きと焼き立てのパン、スープにサラダは砂漠の泉の如くボロを誘っていたが、彼は意地を張って携行食糧を乱暴にかみ砕いた。
「んかっか」
「あーもう、ほらあ」
喉にかけらを引っ掛けて苦しむボロに、ロールは動物の胃でできた水入れを手渡した。これは途中で汲むのを目撃していたので、ボロは素直に受け取って礼を言った。
「俺は少し寝る……いいか聖女様、何かあっても助けはいらねえからな……ロールは護ってやればいいけどよ……」
「いいえ、危機に瀕していらっしゃるのに見捨てることはできません」
「いらねえっての……」
雨よけに身を包み、その上から落ち葉を散らしてボロは眠りについた。疲れのためか、雑多で荒いその隠蔽をロールが補助する。
「ロールさんのお食事はここに」
「うん、ありがとう」
ロールはボロに落ち葉をかけつつ、聖女について別の側面に興味を惹かれているのに気づいた。即ち、何故ボロにここまで執着しているのかという謎である。
分け隔てなく、というなら彼女の行動は矛盾している。では、ボロ個人に何か執着する理由があるのか、あるいはこの執着には別の意味があるのだろうか。
「お休みはこちらで」
「ん……いいや、ボロを見てるねえ」
聖女は何も語らなかった。故に、個人への執着と見なしボロの傍にいることを選ぶのは、ロールには当然の選択であった。
数時間後、陽が最頂に坐するころににボロは覚醒した。充分とは言えないが、行動に支障が出るほどの疲労からは回復していた。
「おはようございます」
「おう、まだいやがったな」
ボロが真っ先に聖女に噛みついたことに、ロールは不満であった。傍で見守っていたのは自身なのだ。
「あの白い奴らは来なかったよお」
「良し、このまま登るぞ」
兎にも角にも金鐘である。このままに登り続け、天使らの襲撃も受けなければ明後日には頂上にたどり着ける目算だった。
「あいつらは何なんだろうねえ」
「ハルルーベの荒事専門家だろ、どっかの誰かに用があるみたいだったけどな」
「悲しむべきことです、言葉も交わさずに武器を以て相対するとは」
皮肉が聖女に通じず、ボロはしかめ面で足を速めていた。
「だっておかしいよ、タスロフにはハルルーベの何もないんだよお?」
組合同様にハルルーベの支部はタスロフに存在しない。ハルルーベの起源は王に従った仲間の一人にあり、王との確執を抱えるかの地は救済も迫害にも価せずと半ば無視の状態にあったのだ。
「それなのに聖女様を殺しにくるのお?」
「それだけ聖女様がいるとまずいんだろ」
聖女は微笑んだままだった。
ボロたちの推測は、細部で多少の誤差を含みつつ、大筋では正鵠を射ていた。
ハルルーベが聖女を危険視するのは、彼女が真実聖女であるからである。
奇跡を起こし、神と共にあり、誰であれあらゆる区別を行わず、誠実と善良のみを対価に救いを施す。そこに彼らが入る余地はない。権威と権益の霧散は火を見るよりも明らかである。
かくして自己保存の本能は、信仰と真実を容易く踏みにじった。
ボロたちが知るのは後のこととなるが、すでに内部での情報共有は完了し、外部に向けた声明発表の準備も整いつつあった。これらの迅速な対応は、宗教と組織の腐敗とそれに類する悪しき巧妙であった。
ともかく一同は山を登り続け、2度目の夜を迎え入れた。7合目といったところで、寒冷と空気の薄さが実感できるほどになっていた。傾斜も険しく、一歩ごとにより体力を消耗しなければならない。
が、彼らはより重篤な問題に直面していた。
「気づいてないよな?」
「うん、探してるみたい」
天使の一人が、視認できる距離まで迫っていたのだ。先日ボロに襲い掛かった、輪剣を備えた者である。
まだこちらには気づいていないが、危うい状況であった。
「やり過ごす?」
「そのつもりだけど、荒事の準備はしておけよ」
ボロは輪剣天使から目を離さないようにしながら、道具袋の内容を探った。携行食糧と護身用のナイフ、着替えや浄水器、雨除けと寝袋、火おこし器と虫除け獣除けが手持ちであった。
「ロール、お前のナイフは壊れてないよな?」
「うん、けどあの白い奴らに届くと思えないよねえ」
輪剣天使は半数に分かれた内の一人、それも分散中で近くに他の天使はいない。そもそもが、ボロたちの追跡自体河原から小石を一つ見定めるが如き難事である。
にも拘らず接近遭遇間近の状況は創り出された、幸運と不運は常に表裏一体で、必要以上に天邪鬼であった。
「戦うもんか、逃げるのに使うんだ……ああ、くそっ」
輪剣天使がボロたちに向かってきた。天使の方は所在を知っての行動ではなく直線的でないが、いずれは辿り着いてしまう。
ボロたちは腹ばいになりながら逃げた。幸い紛れることが可能な背の草木が茂っている。
「ゆっくりだぞ、揺らさないようにゆっくり―」
「あ」
ロールが最初に気づいた。輪剣天使の背後に、見慣れぬ影が現れてどんどんその数を増やしている。
「山犬?」
タスロフ全域に生息する種である。正式な名もなく、野良犬の類が山に住み着いたものをそう呼称する。群れで行動し、ボロも何度か同種を見たことがあるが、環境か餌のせいか遥かに大型であった。
輪剣天使が気づいた時、すでに山犬たちの攻撃は始まっていた。数に物を言わせ、周囲を囲み強靭な牙と爪で一斉に襲い掛かる。
しかし、それは同時に天使の実力を示す機会を与えるものでもあった。彼は輪剣を巧みに操り、廻る動きで死角からの攻撃に対応し山犬を寄せ付けず、隙を縫って紫色の信号弾を打ち上げた。
「くそっ、走るぞ!」
ボロは、それが集合要請のものだと判断し叫んだ。天使たちの集合は危機であり好機である、山犬の対処に追われ追跡の目もくらませられる。
だが―
「お待ちを、今すぐに向かいます」
「おい! 聖女様!」
「危機に瀕している方を見捨ててはいけません」
聖女は天使の救助に向かった。
「勝手に……おおお⁉」
それだけなら放って逃げるのだが、問題はそれに山犬が反応し、ボロにも何匹かが向かってきている点にあった。
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