第七章
第七章
そして、数日後の事である。ジャックさんが、児童相談所に相談の予約を取り付けて、咲も一緒に三人で行くことが決定した。
児童相談所は、比較的近くにあるのは、咲も知っていた。相談所の人に、道中向かうための態度を知りたいので、出来れば其れも観察してきてください、と言われたために、歩いていくことにした。
相談所に行くと、ジャックさんが持ち掛けても、最初武史くんは応じなかった。それでは、咲おばさんと一緒にお風呂に行こう。と、咲が持ち掛けて、やっと動いてくれた。
暫く歩くと、製鉄所の前を通りかかった。製鉄所も支援施設の一つなので、児童相談所の近くに立っている。支援施設は、そういう風に関連するものが固まっている場合が多い。ある意味、其れは、一つの地区のようにもみえて、ゲットーに近いようなところもある。
「おばさん。」
ふいに咲の手をつないでいた、武史くんが、そんなことを言い出した。
「どうしたの?」
咲は一度止まって、武史君のほうを見る。
「今日は、お空に雲が、、、。」
「え?」
咲は、頭上を見た。たしかに、お空には雲がかかっている。二人の大人が、武史君から注意が
それた。
丁度、製鉄所の正門が開いていた。多分、ブッチャーか誰かが、掃除をするために、開けていたのだろうと思われる。普段はいつも閉めている筈だったから。
「武史君、たしかに今日はいい天気だねエ。」
咲が、そう言い返した所、武史君はぱっと、その場を離れて走っていってしまった。咲がちょっと待って!と声を上げたが、その同時に一台のトラックが走ってきて、追いかけることが出来なかった。
「何処へ行ったんですかね。」
ジャックさんが、申し訳なさそうに言った。
「とにかく、探しましょう。あたしはこっちに行くから、ジャックさんは向こうの方を。」
咲は、ジャックさんと二手に別れて、武史君、武史君と探し始めた。二人の大人たちがそうしている間、少年武史くんは、まんまと製鉄所の敷地内に入って、あけっぱなしの玄関の戸から中庭に行ってしまったのである。
丁度、換気のため、四畳半のふすまは開いていた。水穂は薬を飲んで少しうとうとしていたが、急に、どどどどっと小さな子どもが走ってきた音がして、目が覚めた。周りを確認すると、枕元に小さな少年が、チョコンと座っている。
なにか訳があるのかな、とすぐにわかった。
「おじさん。」
「何?」
水穂がそう聞くと、
「ちょっと隠れさせて。」
と、少年は言った。
「いいよ。ふすまを閉めようか。」
水穂は、そういって布団に座ろうと試みたが、とてもそんなことは出来ず、起き上がることも難しかった。これを見た武史君は、自分ですぐにふすまを閉めた。
「おじさん、もう歩けないの?」
水穂はしずかに頷く。
「そうなんだね。」
と、武史君は、うんと頷いた。杉三や、咲にしたような、あの乱暴な目つきではない。
「誰かが、探してるの?君の事。」
「うん。みんな僕の事、悪い子だって言って、お直ししている先生の所に連れていくんだ、今からね。」
水穂がそう聞くと、武史君はそう答えた。
「お直し?」
「そうだよ。学校の先生が、僕は悪い子だっていうんだ。悪い子だって言って、みんな治そうとするんだ。父ちゃんも、咲おばさんも。」
なるほど、そういう事か。以前杉ちゃんが、そういう子がいると言っていた。岡本太郎みたいな、個性的な絵を描くせいで、変な子だと言われている子がいると。これがその子か。でも目の前にいる少年は、いかにも普通の少年である。何も悪そうな少年ではない。
たしかに教育は、矯正という意味もあるが、個性の強い子は、かえって、それを強調した方がいい場合もある。
「そうなのね。実はおじさんもそういうことあったんだよ。ピアノばっかりやっていて、変な子だって言われてた。それではいけないと思われていて。」
と、水穂はしずかに言った。
「おじさんも、悪い子って言われて、偉い先生に治してもらったの?」
「どうだろう。」
武史くんに言われて水穂は大きなため息をついた。それを矯正したというか、逆に使える奴として、ピアノの道に進むことになったが、出身階級がまずかったために、其れには適応することはできず、結局体まで壊してしまったのである。
「じゃあ、おじさんも、悪い子だったんだ。自分のすきなことやっている奴は悪い子だって、学校の先生が言ってた。お父さんや、お母さんのために、一生懸命働いて、自分のすきなことは後回しにしておくのが本当にいい子だって。」
「そうかもしれないね。僕もそうだったかもしれない。」
水穂はにこやかに笑った。
武史君は、なかまができて嬉しいというような顔をする。
「でもそういう事なら、僕の父ちゃんも母ちゃんも悪い子だって言われなきゃいけないんだよ。」
武史君は、ははは、と口に笑いを浮かべながら言った。
「なんで悪い子なの?」
「僕、知っているんだ。僕の母ちゃん、僕が赤ちゃんの時死んじゃったって、父ちゃんも学校の先生もいうけど。」
武史君はそんなことを言い始めた。
「あのね。本当は、お母ちゃん、生きてるんだよ。やっぱり日本の男の人がすきで、そっちの方がいいって言って、出て行ったんだよ、うちを。」
なるほど。文化の違いなどから、お母さんはイギリス人のお父さんになじめなかったのだろう。其れは、イギリス人のお父さんもそういう事だったんだと思う。実際に生活していくという事は、ほんとに難しい事だから。
「どうしてそんなことを知っているの?」
水穂がそう聞くと、武史君はにこやかに笑って答える。
「去年の夏に葉書が来たんだ。僕の家にね。綺麗な女の人が、日本の男の人と一緒に写っている写真だった。その隣に、僕より小さな赤ちゃんも写ってた。父ちゃんは、それを見て、すぐに破り捨てた。僕には知らない女の人から葉書が来たって笑っていたけど、僕はそれが僕のお母ちゃんだったとすぐにわかった。」
なるほど。大人の勝手な身勝手というか、一番の被害者は、子どもであるということは、誰も注意しないのかと大きなため息がでた。バツイチは当たり前という時代になったが、そんな事を軽く言うと、傷つく人も、少なからずいる事に、気が付いてもらいたいものである。
大体、この製鉄所の利用者もそういう子が多い。そういうことはしっかりと決着を付けて、どちらが悪いのかはっきり言い聞かせないといけないのではないかと水穂は思った。
「そうなんだね。何事も中途半端はいけないというが、そういう事なんだね。」
と、だけ言っておいた。
「自分勝手で困るよね。大人って。」
「ほんとだよ。」
武史君は、そういうのである。子どもがいう事はかわいらしいが、実は重大なことを秘めていることもある。だから、武史くんも世のなかが美しいと思えないで、ああいう気持ち悪い絵を描いているのだろう。
「そうだね、武史君も、そういうことが言える大人になってね。本当は、大人になったら自分勝手はしてはいけないんだからね。」
水穂はそこだけは伝えておいた。というより、伝えておきたかった。そういうことを解決してやることは、自分にも出来ないし、武史くんにも出来ないことだろう。ただ、経験というモノは得る。そこをうまく生かしてなにか仕事に役に立ててもらえないかと願いを込めて伝えるしかできなかった。それも、伝わるかどうかは、子どもには不詳である。
でも武史君は、それに気が付いてくれたのかどうか不明だが、こういうことを、いうのだった。
「分かったよ。おじさん。これは、僕と、おじさんだけの秘密にしておくよ。おしえてくれてありがとうね。」
水穂もどういたしまして、と口にしようと思ったが、口を開くと猛烈に吐き気がして、激しく咳き込んでしまったのであった。
「どうしたの?おじさん。」
武史君がそう聞くが、こたえることは出来なかった。其れより咳き込んでそれどころではなかった。
「おじさん?」
何とかして返事を返そうとするが、とてもそんなことは出来なかった。武史君に向かって応答しなければと思ったが、そちらを向こうとしたその瞬間、生臭い液体が口からあふれた。
「あ!」
あふれたモノは文字通り鮮血であった。武史君は、なにか叫びながら、四畳半のふすまを乱暴に開けて、そとへ飛び出していく。
一方、咲とジャックさんは、武史君、武史君と言いながら、必死になって、武史君を探していた。時には、通行人に聞いたりもしたが、彼らはこぞって、そのような子は見かけなかったというのだった。若しかしたら、武史くん、誘拐犯にでも呼ばれたか、其れとも、神隠しにでもあったのだろか、と咲が考えていると、
「咲おばさん。」
と、ふいに声がして、すぐに後ろを振り向く。
と、そこには、武史君がいた。
「武史くん!散々おばさんたちを困らせて!」
と、一発たたいてやろうと思ったが、武史くんの目に涙が出ているのを見て、それをためらって
しまった。
「どうしたの?」
と、咲は思わず聞いてみる。すると武史君は、目に一杯涙をためて、
「咲おばさんお願い。おじさんを助けて!」
と、言った。
「おじさんって誰の事?」
咲がもう一回聞くと、
「あの中に入っている、綺麗なおじさん!」
と、武史君は、製鉄所の正門を指さした。
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