第二章

第二章

「さて、杉ちゃん。」

と、生徒さんを送り出した後、苑子さんが、杉三たちに言った。

「それでは、ちょっと弾いてみませんか?まだ、弾いてみるのは、早いですか?」

杉三が、ジャックさんにどうだ?と目くばせをすると、ジャックさんは、少し考えて、やってみるかという顔をする。

「よし、やろうぜ。」

二人は、にこやかに、お箏の前に置かれた椅子に座った。

「それでは、やってみましょうね。なにかやってみたい曲とかありますでしょうか?」

苑子さんが一応聞く。外国人であるから、六段の調べとかそういうモノをやりたがるのかなと思ったら、意外にそうでもない。ただ、こんなもの口にしていいんでしょうかという顔をしている。

「おい、言ってみていいんだぜ。ここは堅苦しい所じゃないんだからな。テレビドラマの主題歌をやる連中もいるんだぞ。ずうっと、バスの中で口ずさんでいた癖に。絶対、ここでは笑われることはないから、言うだけ言ってみな。」

杉ちゃんにそういわれて、ジャックさんは、ちょっと照れくさそうに、

「柱の傷はおととしの、、、。」

と、しずかに口ずさんだ。これを見て、それでは、苑子さんは急いでお箏を調弦し、そのメロディを演奏する。杉ちゃんがその続きをいい声で歌いだした。

「柱の傷はおととしの、

五月五日の背比べ。

粽食べたべ兄さんが、

測ってくれた背のたけ。

昨日比べりゃ何の事、

やっと羽織の紐の丈。」

「じゃあ、やってみましょうね。まず、このお箏の調子は洋調子と言います。西洋音楽に合わるための調弦法です。遠くの絃から、壱、弐、参、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾と名前が付けられています。お箏はじかに指で弾くのではなく、親指と人差し指、中指にこんな風に爪をはめて弾きます。実音は、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ。」

苑子さんは、絃の説明を始め、爪をはめた指をみせた。ジャックさんはそれを真剣に聞いている。

「それで行きましょう。先ず一から巾まで一通り弾いてみてください。」

「わかりました。」

ジャックさんは、苑子さんに渡された爪をはめて、その通りに弾き始めた。

「それでは、絃の名を覚えていただけましたら。いよいよ背比べの練習をしてみましょうか。」

苑子さんはそういって、背比べのメロディを弾き始めた。

「行きますよ。最初は、四四五、六、八九八、六、九九斗、九、八。絃番号を言ったままで構いませんから、やってみてください。」

「四四五、六、八九八、六、九九斗、九、七。」

と、ジャックさんはその通りに弾き始める。

「続いて、斗、九、斗、八九八、四、六七六、五、四。やってみて下さい。」

「斗、九、斗、八九八、四、六七六、五、四。」

へえ、なかなかやるじゃないか。番号通りに、指を動かせる人はそうはいないわ。と、咲は、興味深そうにジャックさんを見た。

「次に行きますよ。斗、斗、斗、為斗八、七、六五四、五、六。」

「斗、斗、斗、為斗八、七、六五四、五、六。」

その通りに弾きこなすジャックさん。

「八九八、八、九、斗、斗、八六五、六、四。」

「八九八、八、九、斗、斗、八六五、六、四。」

「五、五、五、六七六、五、四五六、五六七。」

「五、五、五、六七六、五、四五六、五六七。」

「六、八、九、斗為斗、九、七七八、七八斗。」

「六、八、九、斗為斗、九、七七八、七八斗。」

「すごーい。いつもなら、私が実音吹いたりして、生徒さんの助け船を出すんだけど、それもなしで、一人で全部やれちゃうなんて、なかなかいませんよ。」

おもわず咲も感激して、そういってしまった。

「いやあ、本当にありがとう御座います。もう絃を追っかけるのが精一杯で、非常に難しい楽器だなと思いましたよ。」

ジャックさんはそういうが、なかなか初めてお箏を触れて、こうして曲が弾けるという人は、めったにいなかった。これには杉ちゃんまで感激して、近いうちに春の海とか弾けるんじゃないか、なんてからかったくらいだ。

「それではもう一回いきますか。今度は、もう一回通して弾きましょうね。こんな感じで弾くということを覚えてくださいね。いきますよ、四四五、六、八九八、六、九九斗、九、八。」

「四四五、六、八九八、六、九九斗、九、八。」

ジャックさんもそれについていく。

「何かわけがあるのかな。こんなに早くお箏を覚えるなんて。」

杉三は、終いにぼそっとつぶやいたのであった。

一時間ほど体験レッスンをして、二人はにこやかに帰っていった。咲も苑子さんも、楽器を片付けて、お互い帰りの道を取る。今回苑子さんの家は、比較的近かったが、咲の家は、前述した通り、バスに乗って30分はかからなければ行けなかった。

幸い、バスはすぐに来てくれた。咲はすぐにバスに乗った。帰りのバスは貸し切りのようなバスではなくて、ちゃんと客が乗っていた。バスに乗って暫くすると、霧雨が降ってきた。バスは、交差点を走って、ちょっとしたショッピングセンターの敷地内に来た。バスは、そこにある停留所の前で止まった。買物していた人たちが、五人程乗ってくる。その中には、

「あれ?先ほどお会いした、田沼ジャックさんじゃありませんか?」

と、顔を見た事のある人物がいたので、咲はすぐに声を掛けた。

「あ、ああ、どうも、あのフルートの。」

「ええ、浜島です。」

咲はにこやかに笑った。

「いつもバスで来られるんですか?杉ちゃん、あの、影山杉三さんは?」

「ええ、先にかえってもらいました。そのあとで僕は、ここで買物をして、これから帰る所です。」

なるほど。外国人らしく、さっぱりとした付き合い方だった。そういう個人主義的な所は、咲もあこがれている。

「そうですか。それでは、これからお宅へ帰るんですね。あの、ちょっと伺いたいんですけど。」

咲は、好奇心からか、なぜかそんな言葉が出てしまったのであった。

「今日、初めてお稽古に来た様ですが、すごく熱意があって、驚きましたわ。ああして、背比べだったかしら、あれを、綺麗に弾きこなされてて、びっくりしました。なかなかそういう人に会ったことがないから、こちらも嬉しかったですよ。」

「ええ、まあね。あれは、妻がね、若いころ、よく歌っていた曲なんですよ。ちなみに、浜島さんは、結婚しているんでしょうから、まだ、こういう気持ちにはなりませんよね。」

と、ジャックさんはちょっと恥ずかしそうに言った。

「いいえ、あたしは未亡人です。一度結婚したんですけど、すぐに逝ってしまいましたわ。本当に短い結婚生活でしたけど、あたしは、後悔していません。」

「そうですか、、、。」

咲がそういうと、ジャックさんは、感慨深そうに言った。

「いやあ、浜島さんもそれでは大変なんですね。僕は、こっちに来て、すぐに妻が逝ってしまって、日本の文化にも慣れず、もうてんてこまいの毎日でしたよ。おまけに、一人息子も育てなければ行けませんから。」

「あら、お子さんいらしていたんですか。そんなお年には見えませんでしたわ。」

「日本の女性は、すぐに年の事を誉めるんですが、正直、それを言われても嬉しくありませんよ、浜島さん。其れのせいで、ちゃんと悩んでいることが伝わらなくて困っております。若いんだからと言って、何でもできるわけじゃないのに、支援員さん何かも、皆口を揃えていうんですね。わかいひとは悩んではいけないんだ、とでも言いたげに。」

ジャックさんはそんなことを言った。ということは、何か悩んでいるんだろうか。

「ごめんなさい。私ちゃんと謝るわ。決して悩んではいけないなんて、法律があるわけじゃないわよ。何か生活に困った事でもあったの?もし、あたしでよかったら、話聞くわよ。あたしは、そんなに口のうまい女性じゃないし、そんなお説教なんかできる身分でもないし。」

「そうですね。」

咲がそういうと、ジャックさんは、ちょっと考えて、

「浜島さん、この後時間ありますか?どこで降りるんですか?」

と、聞いてきた。

「ええ、富士駅まで乗って、後は歩いて帰りますが。」

咲がそう応えると、

「僕も同じ何です。何なら、僕の家へ来てくれませんか。それで、現状を把握して頂きたいんですよ。」

と、彼は言う。日本でこういわれると、ちょっと恋愛要素が入ることがあるが、外国人はそうではなく、単に自己紹介のつもりで、平気で自宅へ招きたがるというのは、咲も知っていた。だから、快く応じることにした。

「わかりました。あんまり長居はできないけど、ちょっと寄らせてもらいますわ。」

ジャックさんは、咲がそういうと、なんだか嬉しそうな顔をした。たぶん、彼は彼なりに何か悩んでいたのだろう。それで癒しを求めたくて、お箏教室にやってきたのかなと咲は思った。

「どうか、日本人は悩まないとは思わないでくださいね、あたしだって悩むことはあるし。ほかの人だって、悩んでいることは沢山ありますもの。ただ、日本人は、それを知られてしまうと、いじめられて攻撃されてしまうという文化があるから、それで口に出さないというだけなんです。だから、誰にも相談できないように見えるけど、例外のないルールはありません。あたしみたいに、誰かに頼らないといけない人間も少なからずいますよ、日本にも。」

咲がそういうと、ジャックさんはありがとうございます、と、本当に嬉しそうな顔をした。それが、彼が悩んでいることを示す証拠だった。咲は、それを見て、是非、彼の家にいこうと思った。

間もなく、車内アナウンスが流れた。富士駅にバスが到着したのだ。

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