柱の傷は一昨年の

増田朋美

第一章

柱の傷はおととしの、、、。

第一章

今日から、新しい職場に行くんだな、と、目を覚ました咲はそう思ったのだった。職場と言っても、お箏教室なのだが、それでも今の咲には、非常に大事なものになっている。

お教室は、富士駅からバスで30分ほど走ったところにある、小さなコミュニティセンターだった。と言っても、このコミュニティセンターは、5年ほど前は、ある裕福な一家が住んでいて、もともとは個人の家であった。ただ、そこの家主が、子どもが出来なかったか何かして、夫婦二人で暮らしていた様だが、まもなく妻が死んで、夫も老人ホームにはいることになって、家をなにかに使ってくれと、富士

市の役所に申し入れていたらしい。それで、この家は市営のコミュニティセンターに、生まれ変わったのだ。そういう事情もあって、余り評判が良くなく、結構空き部屋があったため、お箏教室ぬさは、すぐ、このコミュニティセンターを借りることが出来たのだ。

急いでスーツに着替え、朝食を食べて、コミュニティセンターのある場所を、スマートフォンアプリでしっかり確かめる。個人の家だった事もあり、駐車場には余り恵まれていないので、歩いていくか、バスかタクシーを使うかの何れかの方法で行くしかなかった。そこで咲は、フルートと楽譜を鞄の中に入れて、自宅の近所にあるバス停へ向かって歩いて行った。バス停と言っても、古ぼけた柱のようにみえて、本当にバスが来るかどうか、不安にもなるのだが、、、。でも、ちゃんとバスの時刻表は貼ってあったし、バスは時間通りにやって来た。

バスと言っても、マイクロバスといえるもので、大型のワゴン車にお客さんを乗せているようなモノであった。余り需要のないバスのようで、お客さんは誰もいない。咲は、自分だけの貸し切りバスのようなつもりで、のんびりバスにゆられながら、コミュニティセンターに向かった。

バスを降りると、コミュニティセンターの前に、一人の女性が立っていた。自身の師匠である、下村苑子先生である。

「おはようございます。」

咲が声をかけると、下村先生はにこやかに振り向いた。

「おはようございます。」

ああ、やっぱりまだ、薫さんがなくなった時の事を思い出しているのかなと思われる顔つきをしている。でも、咲は其れは言わないことにした。

「これからそこが、うちの教室の本拠地になるんですね。」

代わりにそんな事をいう。

「そうね、まったく変わったというか、ちょっと生徒さんには通うのに不便になるけれど、其れでもやって行かなくちゃねえ。」

苑子さんは、ちょっと照れくさそうに笑い返した。事実、ここに移転したことによって、こんな遠い場所では通えないとして、やめてしまった生徒さんたちが、半分近くいる。

「大丈夫ですよ。きっと、また、新しくはいってくれる生徒さんがでてきますよ。それまでの辛抱です。頑張りましょう。」

そうやって励ますのが咲の日課になっている。なぜか師匠は、下村先生の筈なのに、咲が励ます事になってしまったのだった。何だか教えるときには、下村先生が主になるが、それ以外のこういう時は、咲がリードしているような気がする。

「じゃあ、はいりましょうか。新しい、あたしたちのレッスン室。」

と、咲は、苑子さんを引っ張って、新しいコミュニティセンターの中にはいった。受付は真正面にあった。受付に、今日からこちらでお世話になりますと挨拶すると、快く承諾してくれた。近くの壁には、お箏教室始めました、と、書かれた張り紙が貼られている。コミュニティセンターの人が作ってくれたらしい。

「あの、私たち、お箏教室の下村と、」

「浜島です。」

二人が挨拶すると、にこやかに、受付の人は挨拶してくれて、お箏教室に使う部屋の番号と、カギを貸してくれた。そして、手早く部屋の貸し出しについて、注意点を述べる。そのあたりは、以前借りていた、貸し出し施設と余り変わらなかった。しかし最後に、受付の人は、こんな事を述べた。

「昨日、見学させてくれという方が二人電話されました。おひとりの方は、影山杉三さんという人で、もう一人は、田沼ジャックさんという方ですが。」

「あら、急に入門希望者が二人も?」

と、咲が聞くと、

「ええ。始めはノロさんこと、野村先生にお願いしようとしたそうですが、野村先生は、アメリカで演奏旅行に行かれるそうで。なので、ご紹介されたそうです。ジャックさんは、杉三さんが、着物屋さんで知り合ったなかまだそうです。時間は、午後の稽古のときに、来ると言ってました。」

と受付はにこやかに言った。全く杉ちゃんらしい。きっと、必ずそれを伝えろとうるさく言ったのだろう。咲は、杉ちゃんたちが来てくれるとわかって、ちょっとほっとした。

「じゃあ、準備がありますから、これで失礼しますが、、、。」

「はい。楽しんで使ってください。」

と、受付はまたにこやかにいう。今度のコミュニティセンターは、のんびりしていて、何だか受付の人も感じのいい人で、ちょっとゆっくり出来そうな気がしたのだった。

二人は、受付に礼を言って、二階のそのレッスン室に向かった。すでに楽器は前日にお箏やさんに頼んで、搬入して貰ってあった。レッスン室は、八畳位の洋室で、当然の事ながら、床で正座して稽古という事は出来ず、椅子に座って立奏台というお稽古スタイルになる。そのほうがかえっていいでしょうと、苑子さんはいっている。たしかに日本人でありながら、日本の伝統的な座り方である正座を出来ないという人は数多い。そういう事はしなくてもいいという事も伝えておくことも大切だった。

咲と、苑子さんは手早くお箏を出して、立奏台に乗せた。調弦に関しては、苑子さんがした。そういう専門的な事は、苑子さんに任せてある。その間に咲はフルートを組み立てて、キーの間に詰まっているほこりを麺棒でとった。

そうこうしているうちに、予約していた生徒さんがやってきた。半数近くの生徒さんがやめてしまったなか、こういう人は、非常に貴重である。それでは、と、二人は、生徒さんと一緒にチキチキバンバンを演奏して、お稽古をたのしんだ。一時間の稽古が終了し、続いて、もう一人の生徒さんが、やってきて、次はその生徒さんと一緒に、ある愛の詩を、演奏する。まるで、お箏教室というより、お箏を使ったホップス教室という感じの教室であった。でも、咲も苑子さんもそれでいいと思っている。

その二人の、生徒さんのお稽古を終えて、午前中の稽古は終了になる。咲は、コンビ二で弁当を買ってくると言ったが、

「はい、これでどうぞ。」

と、苑子さんが、お弁当箱を差し出した。

「いいんですか?」

「ええ、今日はとくべつな日ですもの。だから、なにか記念になるものを作ってきちゃったのよ。良かったら、沢山食べて。」

弁当箱は、明らかに、男性サイズで、咲はなくなった薫さんのモノだとすぐにわかった。年を取ってくると、そういうところが顕著になるらしい。まあ、それをうるさがる若い人は多いが、咲は、其れをうるさいとは思わなかった。なにか代わりのモノを作らないと、人間は生きては行かれないという事はよく知っている。

蓋を開けると、いかにも幕の内弁当という感じの弁当で、若い人が好みそうな弁当からはかけ離れていた。それでも咲はその弁当を本当においしいと思った。何だか手作りの味で、コンビニ弁当にはない、おいしさだった。

苑子さんは、水筒まで持ってきてくれた。中身は、典型的な緑茶で、咲はどちらかというと、紅茶のほうが、緑茶よりすきだったが、今回は緑茶が、非常に弁当とあっていると思った。何だか苑子さん、薫さんにしてやれなかった事を、自分にしているのではないだろうか。咲は、そんな気がしたのである。

お昼が終わって、午後の生徒さんがやってくる。この時に、杉ちゃんたちも見学にやってくるのだ。生徒さんと、今日やる曲の事を話して、それでは、始めましょうと苑子さんが琴柱を動かし始めた時。

「あ、ここの部屋だったのか。よし。はいろうぜ。」

と、いう声がした。おそらく杉ちゃんたちが到着したのだろう。咲は、フルートを持ったまま、すぐに部屋のドアを開けた。

「こんにちはあ。いやあ、ご精が出ますねえ。やっと新しい場所を見つけられることが出来てよかったねえ。ほんと、今日は本当におめでとう!」

と言いながら、杉三がやってきた。

「こいつはな、ジャックさんって言って、イギリスから来た人で、僕が呉服屋さんに行った時、知り合ったんだよ。まあ言ってみれば着物なかまです。よろしく。」

杉三が隣にいる、一人の金髪の男性を指さした。彼は多少、のんびりした、というよりはにかんだ性格なのだろうか。ちょっと恥ずかしそうに、にこやかに笑った。

「日本語の知識はあるようだが、箏の専門用語はあまり知らないらしい。でも興味があるんだって。だから連れてきたんだよ。」

杉三は彼を紹介した。本来は、蘭を連れてくるはずなのだが、多分喧嘩でもしたのだろう。それでカールさんが、多分この人を使えと指示を出したのだ。

「其れでは、お稽古を始めましょうか。今日は、ビートルズの、Let it beをやります。お二人は、そこの椅子に座ってて。」

苑子さんにそういわれて、咲は、フルートを吹き始めた。苑子さんも生徒さんも、楽しそうにお箏を弾き始める。杉三が、いい声で歌い始めた。隣に座ったジャックさんは、ちょっとはにかみながら、お箏でこんな曲が弾けるのかと興味深そうに彼女たちを見つめている。


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