第10話
雨が降りだしたのか、しゃーっという音が窓の外から聞こえる。加穂子は「そこのタブレット、見てみて」と言った。目線はあくまで台の上だ。
私は震える手で台の縁に置いてあったタブレットをつかむ。
そこには志保に向けたLINEの画面が映し出されていて、「あなたは来月から来なくていいです。代わりに田所さんに入ってもらいます。今までおつかれさまでした」と書かかれている。
「そのLINEさ、志保ちゃんに送ってくれる? 送信ボタンだけ押してくれればいい。ほら、いま私、手が離せないでしょ?」
加穂子は芝居がかってキューを振って見せた。
「これはね、いわば踏み絵。あなたが本気で変わりたいなら、これぐらいのことできてもらわないと。ただ押すだけ。できるでしょ」
加穂子は9番ボールへ向けて、二度三度と素振りをする。
「志保さんはこのことを」
「もちろん知らない」
「じゃあ」
「そうね、ショックを受けるでしょうね」
私はたまらず、「別の形じゃダメなんですか? 志保さんとふたりで、とか」と声を上げた。
「ダメ。自分を変えるってのは、それぐらいの覚悟がないと」
「そんな」
「いまここで変わりなさい。でなければ、ずっと人に利用される負け犬人生を歩むといい」
「なんでそんなひどいこと」
私はほとんど泣きかけていた。足が震え、お腹も痛い。
「私はね、美香ちゃんに変わってほしいから言ってるの。私があなたを変えてあげる。彼氏だって仕事だって家族だって、与えてあげる」
私は魅入られたように手の中にあるタブレットの画面にもう一度触れた。
一度暗くなっていた画面が戻る。文面から目を背け、紙飛行機のアイコンがついた送信ボタンを見つめる。これを押しさえすれば。
頭の中にキーンという音が鳴り始めた。同時に、いろいろな人が現れては私に語りかけてくる。
貴志くんは「美香の気持ちが見えないよ」と悲しそうだ。私が変わったら貴志くんも戻ってきてくるだろうか。
由佳は「お姉ちゃんはfor othersの人だから」と涼しい顔をしている。要領がよくて、人の懐につけ入るのが上手な妹。
母が「たまにはわがままになっていいのよ」と心配している。お母さん、本当? 私、変わってもいいかな?
私は変わる。いままで手放してきたものを、自分を取り戻す。
私はゆっくりと人差し指を送信ボタンへ伸ばした。
雨の音が強くなる。
「押しなさい」
加穂子の強くて優しい声が耳に届く。ぼんやり輝く画面に指先が触れかける。
ゴロン、ガチャン。
ビリヤード台の下にある排出口のほうから音がした。
さきほどポケットに落ちた8番のボールが、台の下のどこかで詰まっていたようで、今さらようやく落ちてきた。
黒い硬質プラスチックのボールが、すでに落ちていた7つのボールの群れにぶつかり、揺れて、並んだ。
仲良く整列した8つの球体。
とたん頭の中には別の映像が流れ、同時に、すれすれまで近づいていた私の指は画面から離れた。
それはこんな映像だ。
蛍光灯に照らされたリビング。パックに入った8つの丸いたこ焼きを囲んで、私たち3人家族が笑っている。
「いつもありがとうね」と母が微笑む。
「おいしかったー」と妹がお腹をさする。
「お母さん、由佳、よかったら食べて」と私はパックを押し出す。伸びる2本の爪楊枝。青のりの香り、かつお節の風味、マヨネーズの食感、リビングの蛍光灯、バラエティ番組の音。それは我が家で何度となく繰り返されてきた、かけがえのない光景だ。
加穂子の息子のことを考える。
幼いころの彼は、父親とこんな風にたこ焼きを食べただろうか。その思い出はいつまで保たれるのだろう。彼らが、自分たちは本当の親子ではないと知るまで? それはいつのことだろう。そのとき加穂子はどんな顔をするのだろう。
私は、加穂子が次々と落としていったビリヤードボールをもう一度見つめる。ふたたびタブレットに目をやる。画面はふたたび真っ暗になっている。
「押せません」
自分のものとは思えないぐらい、低い声だった。タブレットをそっと台の上に戻す。
「押せない?」
加穂子はいつのまにか上体を起こし、こちらを見ていた。
「人を騙して理想の家族を作るのが、わがまま力なら、他人を犠牲にするのが、変わるってことなら、私にはできないです。人から利用され続けようと、自分がないって彼氏にがっかりされようと、私はfor othersで生きていきます」
「そう」
加穂子は静かにつぶやくと、台に覆い被さり、素振りもせずに手玉を突いた。
糸を引くような球筋が9番に向かい、ボール難なくポケットへ落ちた。
「私の勝ちね」
加穂子はしわがれた声でそう言った。間接照明で照らし出された顔は青白く、目尻にはいくつか皺が刻まれていた。
ガゴンガゴン、ガゴンガゴン。台の下をいつまでもボールの音が行き交い、最後の9番ボールはなかなか出てこない。
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