第9話

「私はね、美香ちゃん、今の夫とどうしても結婚したかった」


ゴンッ。加穂子は台の一番長い対角線の先にある6番に向けて手玉を発射した。すーーっ。図ったようにポケットに落ちる。


「出会ったのは20代後半のころ。顔も中身もすごくタイプで、なにがなんでもこの人と結婚したいと思った。でも相手は7歳年下でまだまだ遊びたいみたいで、私がどれだけ言っても、決してうんとは言ってくれなかった」


「先生、その時って、まだ」


「うん。結婚してたよ。でも、彼と出会っちゃったら、前の夫のことはどうでもよくなったの」


加穂子は鼻歌を歌いながら台の回りを往復し、7番の位置を確認する。


「私は彼のことは好き。彼も私のことは好き。体の相性もいい。でも頑として結婚してくれない。さて、どうしたと思う?」


「わからないです」


「子供を作ったの」


加穂子はこともなげに言って、チョークを手に取り、キューにこすりつけた。ジュッ、ジュッ。


「え?」


「子供を作っちゃえば、結婚してくれるかなと思って。あ、もちろん、夫との間の子供ってことにして産んだんだけどね」


私は近くのイスに腰を下ろした。冷えてきたけれど、ノドが乾く。


「とりあえず彼の子供を妊娠して、夫の間の子供ってことで産んで育てていった。でもことあるごとに、『子供は本当の父親であるあなたと一緒に暮らすべきだ』って説得し続けたの。子供が3歳になったときようやく、彼も情にほだされて。すぐに離婚、すぐに再婚ってわけ」


勢いよく手玉を打ち出す。7番がコーナーのポケットに入り、跳ね返った手玉は8番に当たる。8番も少し遅れてサイドポケットに沈んだ。


「ラッキー」


加穂子は無邪気に笑ってガッツポーズをつくる。私は胸のあたりが苦しくなるのを感じた。


「それってつまり、お子さんを利用して、いまの旦那さんと結婚したってことですよね」


「そう」


台の上にボールは二つ。手玉と9番だけだ。しかもポケットに向けて一直線で並んでいる。


「前の旦那さんは、そのことを」


「もちろん知らない。息子も」


「ひどい」


ついこぼれた言葉を慌てて手で覆う。加穂子は「いいの」とでもいうように、微笑んで首を振る。


「でもね、わがままになるってのはそういうこと。自分が欲しいものは何を使ってでも手に入れる、ってこと。だから」


加穂子はそこで私を見た。


「美香ちゃん、うちに来たいなら、志保ちゃんを切って」


「え?」


「いま、事務局は志保ちゃんにやってもらってるんだけど、美香ちゃんを雇う以上、志保ちゃんにはやめてもらわなくちゃいけない」


笑ってごまかそうとしたけれど、唇が歯に引っかかってうまくいかない。


加穂子はふたたび目線を台に戻すと、そのまま「できない?」と尋ねた。


「できないですよ。志保さんに悪いです」


「でも、美香ちゃん、うちに来たいんでしょ? 私と同じ景色を見たいんでしょ?  他人を犠牲にしてでも、自分の幸せを手に入れる強さがある人を、私は仲間にしたい」

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