異教徒の踊り 終
午後七時。夏を目前にして日が長くなってきたとはいえ、もうすっかりあたりは暗くなっている中、僕は青葉先輩に言われたとおりに、「異教徒の踊り」の譜面を演奏していた。音楽室の窓を開け放して、学校の外にまで響くくらい、精一杯大きな音量で。
演奏を終えて、僕はアルトサックスをケースにしまって音楽室を後にし、いつもの帰り道とは違う裏門の方へ向かう。ふと前を見ると、裏門のあたりは雨が降ったわけでもないのに、なぜか水浸しになっていた。その水たまりに気を取られて歩いていると、さっき僕がしっかりとはめなおしたはずの排水溝の蓋が取り去られているのに気が付いた。あたりはすっかり暗くなっているので、よく注意してみないと気付かないような罠だ。品川が怪我をしたときと同じだと思った。
「危ないなー。」
僕は排水溝の蓋を戻しておこうかと思ったけれど、取り去られた蓋はどこにも見当たらなかった。仕方がないので、僕は排水溝をそのままにして注意深くその上を飛び越えた。あたりが水浸しになっているので、蓋のないところを飛び越えるしかないのだ。
僕が無事に排水溝を飛び越えて、三分ほど進んだ時、「残念だったな。」という、少し低めな凛と響く女性の声が後ろから聞こえてきた。
「青葉先輩?」
僕が振り向くと、腕組みをした青葉先輩が立っていて、その前には重そうな排水溝の蓋を片手で持った人影があった。その人影をよく見ると、用務員の石倉さんだった。
「そう何度も何度もあんたの罠にひっかかるほど、うちの吹奏楽部員は馬鹿じゃないよ。」
青葉先輩は腕を組んだまま言い放つ。いつもニコニコと挨拶をしてくれる石倉さんは、いつも通りの笑顔で青葉先輩を見ている。
「いやだなあ。ちょっとそこの排水溝が詰まっているから、修理をしようとしただけですよ。」
「こんな暗い時間に修理などするものか。」
青葉先輩はふん、と鼻で嗤う。
「あんたが去年怪我をさせた部員が、雨も降っていないのに、裏門が水浸しになっていたと言っていたところから、あんたが犯人なんじゃないかとは疑っていたんだ。あたりに水を撒いておけば、裏門を通る人間はその排水溝の蓋を外した部分を通らざるを得なくなる。あたりにホースで水を撒いていても不審がられない人物というと、用務員のあんたしかいない。」
青葉先輩はまっすぐに石倉さんの目を見据える。石倉さんの顔からは笑顔が消え、恐ろしい表情で青葉先輩をにらんでいる。
「それに、さきほどあんたの乗っている軽トラックを見せてもらったがね。バンパーの横に少し傷がついていた。おととい、私を撥ねようとしたときについた傷だろう。なんなら、おととい私が持っていたビニール袋に、撥ねようとした車の塗料が付着していたから、それとあんたの車の塗料とを照合してみようか?」
不敵な笑みを浮かべて放し続ける青葉先輩に、突然、石倉さんがとびかかった。青葉先輩はよけきれず、その場に押し倒される。
「ああ、そうだよ。去年、バリトンサックスの子を怪我させたのも、おとといあんたを撥ねようとしたのも私さ。」
石倉さんは青葉先輩の首元に手をかけて、その首を絞めようとする。
「娘がな、東高校の吹部にいるんだ。アンサンブルコンクールの地区大会ではいつも光海高校に県大会出場権を持っていかれてしまう。光海高校さえ出場しなければ、っていつも言ってたんだ。」
「くっ・・・。それで、サックスアンサンブルの練習が聞こえてきたら排水溝の蓋を外していたって言うのか。」
「そうだよ。練習が終わってサックスの音が聞こえなくなったら、急いでここにきて水を撒いて、蓋を外していたんだ。なんだか知らないが、去年は怪我をした子のほかにも病気になった部員がいたらしいじゃないか。おかげで、去年は娘の学校も県大会に出場できた。」
青葉先輩の首を絞める力はどんどん強くなっていく。
「今年は娘が部活を引退する年だからな。娘の青春を地区大会なんかで終わらせるわけにはいかない。またあの曲が聞こえてきて、演奏していたあんたを軽トラで少し驚かしてやったのさ。」
青葉先輩は苦しそうに咳込んでいる。僕はあたりを見渡して、青葉先輩が持っていたカバンの中から開封していない「すっきりパイン」のペットボトルが転がり出ているのに気が付いた。僕はそれを渾身の力で石倉さんのほうに投げつけた。
僕はものを投げるのがそんなに得意ではないけれど、ペットボトルは見事に石倉さんの顔面に命中し、石倉さんは青葉先輩の首から手を放した。その途端、青葉先輩はポケットから小さな瓶を取り出すと、その中身を石倉さんの顔めがけて振りかけた。
「ぐあっ。目が、目が!!!」
石倉さんは途端に顔を覆って悶絶し始めた。そのすきに青葉先輩は石倉さんのもとから逃げ出した。
「大橋、早く警察に通報を!」
その後、駆け付けた警察によって石倉さんは取り押さえられ、パトカーで連行された。僕と青葉先輩も事情聴取のために、パトカーの後部座席に座り、警察署へ向かった。
「先輩、さっきはいったいなにを振りかけたんですか?石倉さんはずいぶんと苦しんでましたけど。」
「ん?これだよ。おととい、コンビニで見つけた。」
先輩はポケットから小瓶を取り出して僕に渡した。瓶のラベルには「激辛ハバネロソース DEATH LEVEL」と印字されている。
「どうかね。コンビニは役に立つだろう。」
青葉先輩はそう言って、にっこりと笑った。
「たしかにそうですね。」
僕はそう言って、手に持っていた「すっきりパイン」を一口飲んだ。
サックスパートの面々はその後もいつも通り音楽室に集まり、パート練習や合奏に臨んだが、「不幸の譜面」の真相を知った今では、遠藤、吉澤、品川の間には微妙な空気が漂っていた。だが、吉澤は遠藤と品川にも深く謝罪し、鈴木先輩や山本先輩にも会いに行って謝ったそうだ。
そして、夏の吹奏楽コンクールに向けた練習が始まり、青葉先輩の指導は日に日にその苛烈さと口の悪さを増していく。アンサンブルコンクールをめぐる小さな事件とわだかまりは、熱気の中に溶けてなくなっていった。
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