異教徒の踊り 5

 「さて、その『不幸の譜面』とやらの被害に遭ったのは具体的には誰だ?」

青葉先輩はピアノ椅子に腰かけ、行儀悪く鍵盤の蓋の上に頬杖をついた格好で僕に尋ねた。

「えっと、入院したのがソプラノサックスの鈴木先輩とテナーサックスの山本先輩です。二人とももう、卒業していまは大学に通っていますね。ひったくりに遭ったのがアルトサックスの遠藤、下校途中に転んで怪我をしたのがバリトンサックスの品川です。遠藤と品川はもうすぐ来ると思います。」

「ふむ。鈴木と山本から話を聞くのは難しいか。君はコンクールメンバーではなかったんだね。メンバーはどうやって決めるんだ?」

「はい。普段の練習でそれぞれの実力は把握しているのでオーディションとかはなくて、パートリーダーと顧問の先生が話して決めます。当時のパートリーダーは鈴木先輩でした。コンクールメンバーではなかったのは、僕とアルトサックスの吉澤と、当時一年生だった三人の部員です。」

 そこまで説明した時、音楽室の扉が開いてアルトサックスの入ったシャイニーケースを持った遠藤と吉澤、バリトンサックスのハードケースを持った品川が入ってきた。

「ちょうどいい。遠藤、品川、ちょっとこっちに来て座りたまえ。吉澤、君もだ。」

三人は突然、青葉先輩に呼び出されたのでぎょっとして顔を見合わせた。

「あの、なんでしょうか。」

遠藤と品川と吉澤は恐る恐るといった様子でグランドピアノのそばに椅子を持ってきて座った。

「『不幸の譜面』について聞きたいんだ。」

青葉先輩がそう言うと、三人は少し安堵したような表情になった。演奏のことでまた悪口雑言を浴びせられるのかと思っていたのかもしれない。

「遠藤、君は去年、ひったくりに遭ったと聞いたが。」

「は、はい。そうです。・・・あの、おととい、先輩が『不幸の譜面』を演奏してたのは聴いてましたけど、どうかしたんですか?」

遠藤は青葉先輩の額の包帯を心配そうに見ながら言った。

「なに、大したことはない。私のことは気にするな。それより、その時の状況を詳しく話してほしい。」

「はい。えっと、たしかあの日は練習を七時くらいまでやっていて、一人で自転車で帰っていました。学校の前の坂道を下っていたら、後ろからすごい勢いで別の自転車が追いかけてきて、なんか怖いなあ、と思っていたら、その自転車がぶつかるすれすれの距離で追い抜いてきて、私の自転車のカゴからカバンを取って走り去っていったんです。」

遠藤はその時の恐怖を思い出したのか、自分の肩を抱くようにして話した。

「ひったくりの犯人の顔は見えなかったのか?」

「一瞬のことだったし、ぶつかりそうになった瞬間にバランスを崩して倒れそうになったので、犯人の顔を見るような余裕はありませんでした。」

「男か女かもわからない?」

「はい。走り去っていく後ろ姿からしたら、そんなに身体の大きな人じゃなかったから、女の人かもしれません。・・・そのときに練習してた譜面も全部カバンに入っていたし、もちろんお財布なんかも入れてたから、本当に困りました。」

「なるほど。ありがとう。」

青葉先輩はそう言って、頬杖をついたまま何かを考え込むようにしばらく黙った。

 「さて、それじゃあ、鈴木と山本が入院したというのはどういう状況だったのか聞かせてもらおうか。」

青葉先輩の言葉に、僕たちは顔を見合わせる。あのとき鈴木先輩や山本先輩といっしょにいたのは、去年のコンクールメンバーだった遠藤と品川だ。

「たしか、六月の最初の土曜日だったと思うんですけど、コンクールメンバーは練習室Bでアンサンブルの練習をしていました。少し休憩をしようってなったときに、突然山本先輩がお腹が痛いって言いはじめて。」

「そうそう。みんなで大丈夫ですかって声をかけてたら、今度は鈴木先輩まで同じように腹痛を訴えたんです。」

遠藤と品川がそれぞれ説明する。

「君たち二人はなんともなかったのか?」

「はい。私たちは大丈夫だったので、すぐに顧問の先生を呼んで、先輩たちは二人とも先生の車で病院に行きました。それで、結局二人とも入院しちゃって。」

「食中毒か?」

「わかりません。二人が休憩時間に飲んでいたペットボトル入りの飲み物を検査したらしいんですけど、結局なにも見つからなかったって聞いてます。」

「そうか。」

青葉先輩はそう言っておもむろに自分のカバンに手を伸ばすと、中からペットボトルを取り出した。おととい買ってきた「すっきりパイン」だ。

「その飲み物とやらは、当日購入したものなんだろうか。」

「たぶん、そうだと思います。」

それまでずっと黙っていた吉澤が答えた。

「私、お昼の休憩の時に、鈴木先輩と山本先輩が近くのコンビニで飲み物を買って戻ってきたのを見ました。たしか、いま先輩が飲んでるのと同じジュースだったと思います。」

吉澤は、話を聞きながら先輩が口をつけたペットボトルを指さす。食中毒の原因になったかもしれない飲み物と同じものと聞いて、先輩は少し顔をしかめた。

「ところで、吉澤と大橋はそのとき何をしていた?」

「僕たちはコンクールメンバーではなかったので、それぞれ個人練習をしていました。あと、一年生たちは初心者向けの基礎合奏を音楽室でやっていたのでそっちに参加していました。僕も途中から基礎合奏の手伝いで音楽室にいて、遠藤が血相を変えて顧問の先生を呼びに来たのでびっくりしましたよ。」

僕の説明に、青葉先輩はなるほど、と軽くうなずいた。

 「ふむ。そうして遠藤と鈴木と山本の三人が不幸に遭って、最後が君か。」

青葉先輩は品川の方を向いて言った。

「君の場合は転んで怪我をしたんだな?」

「はい。鈴木先輩と山本先輩が入院したので、もうコンクールの出場は難しいかもって思ってたんですけど、個人練習は続けていたんです。それで、楽器も家に持って帰って練習しようと思って帰る途中に、裏門のところで溝に足を引っかけちゃって。バリトンサックスを背負っていたからバランスを崩してしまって、右の足首を骨折しちゃったんです。」

足は完治しているはずだが、品川は自分の右足首をさするようにしながら説明した。

「溝?」

「裏門には排水用の溝が掘ってあって、いつもはコンクリートの蓋がされているんですけど、その日は蓋が外されていたんです。日も暮れた後で暗かったし、私は譜面を見ながら歩いていたから、そこに足を引っかけちゃいました。」

「蓋が外されていた、と。なにかほかに変わったことはなかったか?」

青葉先輩の問いに、品川は首をかしげるようにして少し考えた。

「そういえば、裏門のあたりに水がたまっていたような気がします。雨も降ってなかったのに、不思議に思った覚えがあります。」

「ふむ。偶然といえば偶然なのかもしれないが、それだけ立て続けに事故や事件が起こるというのは、どうも納得できないな。」

青葉先輩はそう言っておもむろに立ち上がった。

「私はもう少し調べてみたいと思う。君たちは練習に戻りたまえ。土曜日の合奏のときのような無様な演奏を二度と聞かせるんじゃないぞ。」

青葉先輩はそう言って音楽室を出ていこうとしたが、扉の前でふと振り向いた。

「いや、大橋。君にはもう少し手伝ってもらおう。」

「え?なんでですか?」

「いいから来るんだ。」

 青葉先輩はいつだって強引だ。


 横を歩く青葉先輩にどこへ向かうのか聞いても、答えてくれなかった。というか、何を話しかけても顎に手を当てたままずっと考え込んでいる。

「大橋。おとといのことだが・・・。」

四階の音楽室から二階まで降りてきたとき、唐突に青葉先輩が話しかけてきた。

「おととい、私がコンビニでさらした醜態は、その、忘れてくれ。」

青葉先輩は、まっすぐ前を向いたまま、それでもほんのりと耳を赤くして言った。さすがの青葉先輩でも恥ずかしいことをしたという自覚があるらしい。

「いやです。」

僕はきっぱりと言った。

「なんだと?」

「先輩はいつも強引ですからね。僕だって弱みのひとつも握っておかないと、僕たち部員は振り回されてしまいますから。」

それに、コンビニパンを前にして笑ったあなたはとてもかわいかった、と付け加えるのはさすがにやめておいた。

「ふん。そうか。君がその気なら構わない。その代わり、合奏でたっぷりいじめてあげよう。私一人ではなぜか誰とも会話にならんからな。弱みついでに私の謎解きを手伝いたまえ。」

青葉先輩は少しすねたような口ぶりで言った。

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