異教徒の踊り 2
午後の合奏でも相変わらずゴミクズだのブタの鳴き声みたいな演奏だのさんざん言われたが、どうにかこうにかその日の練習は終了した。
まわりで部員たちが合奏で指摘のあったことをおさらいしたり、自分の楽器を片付けたりしているなか、僕は譜面を入れているクリアファイルから「異教徒の踊り」を取り出した。ちらりと後ろを振り返ると、今井が僕に目配せした。「いいから早くしろ。」ということらしい。
僕は盛大にため息をつき、ピアノ椅子に腰かけ、眉間にしわをよせて「星条旗よ永遠なれ」のスコアを眺めている青葉先輩に近づいた。
「あの、青葉先輩。」
僕は恐る恐る声をかけた。
「なんだ、私は忙しい。」
先輩はスコアから顔も上げずに言った。
「演奏の修正点なら合奏のなかで言っただろう。質問は受け付けない。」
「いや、そうじゃないんです。あの、先輩に模範演奏をしてほしい楽譜があって・・・。」
僕はそう言って、「異教徒の踊り」の譜面を差し出した。
「模範演奏?」
ようやく先輩はスコアから顔を上げた。先輩の顔は心底面倒くさそうな表情だ。
青葉先輩は怪訝そうに僕の顔を眺めていたが、ふん、と鼻から短く息を吐いて、僕の手から譜面を奪った。
「『異教徒の踊り』か。この曲がどうかしたのか。」
「いえ、個人の練習も兼ねて前から練習してるんですけど、ちょっとニュアンスがつかめないところがあって。」
「ふーん。ずいぶんと書き込みがされているが、君は男にしてはかわいらしい字を書くんだな。」
青葉先輩は手元の譜面を眺めて言った。それは僕のメモではなくてたぶん吉澤のメモです、とは言えなかった。
「そうだな。私もこの曲は好きだよ。ジャン・イブ・フルモー・クヮルテットの演奏を生で聴いたときは鳥肌が立ったね。それに比べて去年の夏にとある演奏会で聴いたアマチュアの連中の演奏は本当に耳障りだった。」
そりゃあ、プロとアマチュアでは違うのは当然でしょう、と言いたかったけれど、今度も僕は余計なことを言うのをやめた。
「いいだろう。一回だけだ。」
ひとしきり譜面を眺めた青葉先輩は、一言だけ言った。
「本当ですか?ありがとうございます!」
「君のために演奏するわけじゃない。私もたまには人前で楽器に触れておかないと腕がなまるからな。」
青葉先輩は相変わらずのしかめつらのまま、グランドピアノの上に置いていた自分のサックスケースを開けた。
先輩のケースの中から現れたのは、サテン仕上げ、つまりつや消しの渋い色合いをしたアルトサックスだった。本体と分離しているネックの部分に、フランスの老舗メーカーH.Selmer社製の楽器であることを示す青いSの刻印がついている。よく手入れされた楽器は音楽室の蛍光灯の光を受けて鈍い金色に輝いていて、美しかった。サックスはメッキやゴールドラッカー仕上げのものをよく見かけるが、少し珍しいサテン仕上げの楽器は、変わり者の青葉先輩によく似合っているような気がした。
先輩は楽器を丁寧に組み立て、慎重にリードを選んでマウスピースにつけた。ネックストラップを首にかけ、ストラップの下に巻き込んでしまった長い髪を払ったとき、なんだかとてもいい匂いがした。
ふと周りを見ると、吹奏楽部の部員は誰もが楽器を片付ける手を止めて、青葉先輩を見ていた。
青葉先輩は譜面台を自分の前に置き、「異教徒の踊り」の譜面をその上に置いた。そして楽器をまっすぐ構え、マウスピースをくわえてそっと息を吸い込んだ。
最初の一音が鳴ったとき、世界が変わった。どこまでも柔らかいきらびやかな音色が音楽室を包み込み、主旋律を奏でているわけでもないのに、本来はソプラノサックスが演奏する美しい主旋律が勝手に思い浮かんでくるようだった。
アルトサックスが主旋律となる部分では、ゆったりとした音の流れが聖女の歌声のように響き、音の動きが激しくなる部分では、一転して鋭い発音のまったく異なる音色が次々と生み出された。
本来は四重奏、つまりソプラノサックス、アルトサックス、テナーサックス、バリトンサックスの四本がそろって初めて楽曲として成立するはずなのに、青葉先輩のアルトサックスの演奏はそれだけでひとつの完結した世界を作っていた。
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