光海高校吹奏楽部活動記録
のぶ
異教徒の踊り
異教徒の踊り 1
僕は平穏な日常を希望してやまない高校生だけれど、現実はそうもいかないらしい。すべての原因は青葉奏―僕の師匠であり、友人であり、先輩でもあるきれいなお姉さんだ。
「君たち、それじゃあ宝島じゃなくてごみ捨て場だろう。ふざけるな!」
五月のさわやかな土曜日の朝、午前十時。音楽室からはいつも通りの罵声が聞こえてくる。声の主は、僕の所属する光海高校吹奏楽部の外部講師であり、部のOGである青葉先輩だ。青葉先輩は持っているグラスファイバー製の指揮棒を掌にぺしぺしと打ち付けながら、見せ場である金管楽器のソリを演奏したトランペット・トロンボーンパートを罵倒する。
「まるでぐっちゃぐっちゃのばらばらだ。幼稚園のお遊戯会のほうがまだましな演奏をするぞ。まあ、やる気のかけらもないようなしょっぼい音を出して・・・。君たちにリズム感ってものはないのか?」
抜群のスタイルを誇る青葉先輩はわりと大きな胸の前で腕を組み、きれいな顔を思いっきりしかめて言い放った。僕がちらりと後ろの方を伺うと、トロンボーンパートの一年生の女子部員は今にも泣きそうな顔をしている。青葉先輩の激烈な指導にはある程度慣れている上級生の部員たちも、うつむいたままで何も言わない。
「君たちはそもそも、この曲をまったく理解していない。金管だけじゃない。木管も、パーカッションも、みんなただの雑音だ!特にサックス!!」
「は、はい!」
「君たちが普段、私の指導をいかにいい加減に聞き流しているかがよくわかった。次のパート練習は覚悟してろ。」
青葉先輩はそう言って、僕の座っているサックスパートのほうを向いてにやりと口を歪めた。こんなに邪悪な笑い方ができる人を、僕はほかに知らない。
ふと、トランペットパートの右端に座る、三年生の今井が顔を上げたのが目に入る。
「なんとかしろよ、この空気。」と、今井が目で訴えているのが分かった。
「はあ・・・。」
僕はため息をついてうなずき、椅子から立ち上がる。
「なんだ、大橋、急に立ち上がって。」
青葉先輩がするどく僕を睨む。そこらのチンピラなら視線だけで逃げ出しそうだ。
「いえ、青葉先輩、見てくださいよ、このみんなの落ち込み具合。」
僕の言葉に、青葉先輩はバンド全体を見渡す。トロンボーンの一年生は涙を浮かべ、トランペットパートは今井を除いて全員死んだような目をしている。サックスパートは次のパート練習の恐怖で震えが止まらず、そのほかのパートもみなうつむくか、必死に自分の譜面をもう一度確認している。
「どうかしたか?みんな元気そうじゃないか。」
青葉先輩は腕を組んだまま言った。
「いやいや、どんな目をしてたら、これが元気そうに見えるんですか。ちょっと言いすぎですよ。まだ楽器を始めて間もない一年生だっているっていうのに。」
「ふん。それがどうした。初心者マークでもつけてステージに上がるつもりか?まだ演奏できないのなら、合奏には来なくていいから、演奏できるようになってから出直してこいといつも言っているじゃないか。」
「そういうわけにはいかないでしょう。とにかく、罵倒するだけじゃなくて、具体的にどこをどう直したらいいのかご指導お願いします。」
僕はそう言って、青葉先輩に頭を下げた。青葉先輩は、ちっ、と大きな音で舌打ちをして、手元のスコアを乱暴にめくった。
「まず、十小節目だが・・・。」
ものすごい早口で次々と、各パートの修正するべきポイントを具体的に羅列していく。
「それから、ここのクラリネットはまるでうんこだったな。ピッチくらい自分たちで合わせろ。ビッチどもが。」
青葉先輩は聞くに堪えない言葉を連発し、部員たちはみんな自分のパートに関する指示を慌ててパート譜に書き込んでいく。
僕は胸をなでおろして、再び椅子に座った。
なんのことはない。四月に青葉先輩が外部講師として招かれてからの光海高校吹奏楽部のいつもの合奏風景だった。
「なあ、青葉先輩、なんとかならないか?このまんまじゃ、パワハラで訴えるなんて言い出す奴が出かねない。」
罵詈雑言を浴びせられながらの合奏はひとまず終了し、昼の休憩に入ったが、部員たちは憔悴した顔で昼食をとっていた。コロッケパンをほおばる今井の言葉に、僕は肩をすくめる。
「別に、いまに始まった話じゃないだろ。」
青葉先輩が外部講師として本格的に僕たちの指導に当たるようになったのは今年の四月からだけど、以前から見学という名目で練習にたびたび顔を出し、合奏の場で顧問の先生も真っ青になるような辛辣な言葉を僕たちに投げかけていた。
「それに、口は悪いけど音楽的なセンスは間違いないし、サックスの演奏だってプロ級らしいよ。去年までに比べたら、合奏のレベルも確実に上がってると思うけど。」
「まあなー。スタイルはいいし、美人だし。家だって金持ちだって聞いてるぜ。なんであんなお下品な言葉を使うようになっちまったのかねえ。」
コロッケパンを食べ終えた今井はコーヒー牛乳を飲みながらぼやく。僕は、窓の外で用務員の石倉さんが花壇に水を撒いているのをぼーっと眺めた。
「でもさ、初心者の一年生たちとか、そろそろ限界なんじゃないかしら。」
後ろから声がして振り向くと、さっきまで一年生をなぐさめていたトロンボーンパートの沢城が立っていた。
「おう、沢城、お前から青葉先輩にガツンと言ってやれよ。一年生の教育担当なんだから。」
「はあ?なんで私なのよ。そういうのは部長の大橋君がやるべきでしょ。」
沢城は顔をしかめて僕の方を睨みながら言う。
「この気弱でかわいい大橋にそんなことできるわけないだろ。」
馬鹿にしたような今井の言葉に僕はムッとしたけれど、なにも言い返せない。
「あーあ。言われっぱなしじゃむかつくから、なんか仕返しをしてやりたいよなー。」
「バカなこといってないで、練習しなさいよ。青葉先輩からほめられるくらいまで。」
「仕返し、ねえ・・・。」
今井と沢城の掛け合いを聞きながら、僕はぼんやりとつぶやいて母が作った弁当の卵焼きを口に入れた。
「先輩たち、仕返しなら、とっておきの方法がありますよ。」
そうやって声をかけてきたのは、パーカッションパート二年生の女子部員、小清水だ。ちょうど前を通りかかって、僕たちの会話が聞こえたらしい。
「お、なんだ、小清水。言ってみろ。」
今井が楽しそうに言う。
「『不幸の譜面』を使いましょう。」
小清水が張り切って言う。偉そうに腰に手を当てて胸を張っているが、いかんせん張る胸がない。
「『不幸の譜面』?ああ、去年のサックスパートの。」
光海高校吹奏楽部には、「不幸の譜面」と呼ばれる、サクソフォン四重奏の譜面がある。曲そのものは「異教徒の踊り」という、バトリス・スキョルティーノという作曲家によって書かれたサクソフォン四重奏用の楽曲で、譜面も一般に販売されており、サックスアンサンブルの定番レパートリーとして有名な曲だ。
ところが、去年、アンサンブルコンクールに向けてこの譜面を演奏していたサックスパートのコンクールメンバーが、次々と不幸に見舞われた。
四人いるコンクールメンバーのうちの一人は練習後の下校途中にひったくりの被害に遭ってカバンごと持ち物を盗まれ、一人は下校途中に転んで脚を骨折する怪我を負った。残りの二人は、練習中に突然腹痛と吐き気を訴え、数日間入院することになった。立て続けに起こったこれらの事故や事件のおかげで、その譜面は「不幸の譜面」と呼ばれるようになった。
僕は去年のコンクールメンバーではなかったから不幸には見舞われなかったけれど、コンクールメンバーでなくても、サックスパート全員に不幸が降りかかったらどうしようかと多少心配していたのを覚えている。
「いいですか。去年のコンクールの指導に青葉先輩は関わっていませんから、この譜面のことも知らないはずです。なんか理由をつけて、青葉先輩に『不幸の譜面』を渡して、演奏してもらうんですよ。」
小清水が悪い顔をしている。
「『不幸の譜面』なんていっても、去年はいろいろなことが偶然重なって起こっただけだと思うけど。」
僕が半信半疑でそういうと、その通りだというように沢城もうなずいた。
「でも、わかんねーじゃねーか。本当に不幸を呼ぶ譜面なのかもしれないぜ。」
僕と沢城を馬鹿にしたように鼻で笑って、今井が言った。
「青葉先輩に譜面を演奏してもらって、なにかまた不幸なことが起こるかもしれないし、何もないかもしれない。ただの遊びだよ。日頃あれだけ俺たちのことをボロクソにけなしてるんだから、ちょっとくらい罰があたってもいいだろ。」
今度は小清水が、激しく同意するというように勢いよくうなずく。
僕はため息をついて、沢城のほうを見る。沢城は呆れたように黙ったまま。「好きにしたら?」と目が言っていた。
「で、大橋はその譜面持ってねえのか?」
「僕は持ってない。コンクールメンバーじゃなかったし。変な噂が立ったから原譜も書庫にしまっちゃったし。」
僕の言葉に、小清水が声を潜めて内緒話をするようなしぐさをした。
「あの、私、アルトサックスの吉澤先輩が『異教徒の踊り』の譜面を持ってるのを見たんです。たぶんコンクールメンバーだった遠藤先輩の譜面をコピーしたんじゃないかと思うんですけど。」
それを聞いた今井が、意地悪そうにニヤリと笑った。
今井がそばでアルトサックスを手入れしていた吉澤に声をかけると、吉澤は本当に「異教徒の踊り」のアルトサックスパート譜を持っていた。今井と小清水は嬉しそうにそれを受け取ると、譜面を僕に手渡した。
「なんで僕に渡す?」
「そりゃあ、サックスの譜面なんだから、お前が声をかけないとおかしいだろ。」
「いやだよ。」
僕は断ろうとしたけれど、今井は譜面を僕の手に強引に押し付けた。
「ここまで来たらお前も共犯なんだから、これを持って青葉先輩に演奏してもらえるように頼むんだよ。午後の練習が終わったら、な。」
僕は今井をにらんでやったが、内心、僕も青葉先輩の演奏は聴きたかった。青葉先輩のサックスの腕前はプロ級だという噂だ。毎回合奏の場に彼女の楽器を持って現れるのだが、誰もその音色を聞いたことは無かった。
「どうせ何も起こらないと思うけどね。」
僕はそう言って、しぶしぶ譜面を受け取った。譜面をちらりと見てみると、細かい書き込みで埋め尽くされ、いたるところに蛍光ペンで印がついていた。
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