第12話 君の名は?
監督を務める先生が教室に入ってきました。
試験直前に感じる、この独特の高揚は嫌いじゃありません。
そうですね。1500メートル持久走のスタートを待つ気分に似ている気がします。
「はい、それじゃあ筆記用具以外、すべて鞄の中にしまってください」
机の上にはシャープペンを二本と消しゴムを一つ。準備OKです。
前の席から順に後ろへ、問題用紙と解答用紙が配られていきます。問題用紙は先生の合図があるまで裏向けに伏せておきます。
全員に行き渡ったところで、一限目を告げるチャイムが鳴りました。
「では、始めてください」
先生の合図と同時に、皆が一斉に問題用紙を表に返しました。
まず一つ目は英語Ⅱです。制限時間は五十分。さあ、勉強の成果を出し切りましょう。
最初に名前を記入します。これを忘れると、いくら答えが正しくても0点ですからね。
〝
『よし』
「よし、じゃないわよ。自分の名前書いてどうするのよ」
『あ、間違えました。ごめんなさい』
「
「す、すみません」
試験監督の先生に注意されてしまいました。後で
筆跡は、できるだけ勇菜ちゃんの字に寄せるよう、ここ数日練習してきました。
まあ、疑われることはないでしょう。宿題を提出するならまだしも、実際に本人がこの場で書いているわけですからね。それは試験監督の先生が証人になってくれます。
氏名を書き直し、次に出席番号。
…………知りませんね。
手が止まったことで、勇菜ちゃんもボクの考えていることに気がついたようです。
ですが、私語を注意された直後ですし、ボクにどう伝えればいいのか分からないんでしょう。トイレを訴える時と同じように、そわそわと焦っている様子が伝わってきます。
大丈夫ですよ。この程度のこと、問題にもなりません。
さ行の世良、ボクが出席番号16ということは、か行の琴吹は……。
答案用紙の隅に、薄く〝11、12、13〟と数字を書き、小さい方から順にシャープペンで指していきます。12を指したところで、勇菜ちゃんが小さく咳払いをしてくれました。
『了解。12番ですね』
……ふむ。
選択形式の問題なら、今みたいに、勇菜ちゃんに答えてもらうことができるかもですね。
今回は状況が状況なので、このままボクが最後まで試験を受けますが、次回があれば、何かしらの手段を講じるようにしましょう。
……次回なんて、勇菜ちゃんのためにはこない方がいいんですけどね。
気を取り直しまして、それでは問題に取り掛かるとします。
十分後。
『終わりました』
「早すぎでしょ! はい・いいえ、で答える問診票じゃないのよ!?」
「琴吹さん! 静かにできないのなら、退出してもらいますよ!」
「すみま……せん」
どんな時でもツッコミを入れずにはいられない。勇菜ちゃんは芸人の鑑ですね。
時間が余ったからと言って、何もしないわけではありません。残りは見直しに費やします。
ざっと二十回ほど解答をチェックしたところで、終了のチャイムが鳴りました。
「はい、そこまで。後ろから答案用紙を集めてください」
答案用紙が回収された後、勇菜ちゃんがボクに一言、こう言いました。
「キモい」
『気分が優れないんですか?』
「解答欄を埋めていくスピードがキモい。見直しの回数がキモい。祝人(のりと)がキモい」
存在否定がきました。
クラスメイトの女子から「キモい」発言。その本気度にかかわらず、言葉自体が持つ殺傷能力は凄まじく、ショックで引きこもってもおかしくないレベルです。
しかし、ボクのメンタルにヒビが入ることはありません。
『ありがとうございます。褒め言葉として受け取っておきますね』
「おめでたい頭ね」
何度も言いますが、ボクと
その特別感を、ボクたち兄弟は内心で嬉しく思っています。マゾとか思わないでください。あれが本心じゃないって、わかっているからですよ。
『次の科目も全力でいかせてもらいますね。応援、よろしくお願いします』
「はいはい。この調子で満点量産ね。がんばー」
ものすごく投げやりですね。週末の家族サービスについて話しているのに、スマホに夢中で生返事しかしない娘を持つお父さんの気持ちがわかりました。
十分間の休憩をはさみ、次は数学Bですが、試験開始まで、教科書やノートの類は出さず、英語Ⅱで疲れた頭を回復させましょう。
と考えていたところへ、勇菜ちゃんの仲良しグループが近づいてきました。
「ねえ、勇菜。試験中の、なんだったの?」
「ん、んん? 私がどうかした?」
「急に怒鳴っていたじゃない」
「あー……うん、ちょっと遅くまで勉強しちゃってね。寝不足なのよ。それで寝ぼけちゃったかも」
たっぷり八時間は睡眠をとりましたけどね。朝食もしっかりと。身体の一部を間借りさせていただいている以上、勇菜ちゃんのコンディションは、オリンピック選手並みに万全を保ってみせますよ。
「勇菜が睡眠時間を削るほど勉強って、え? どういう意味?」
「意味を問われるほどに意外なわけ?」
ここで別の女子が、「でも……」と遠慮がちに会話に入ってきました。
「後ろから見てたんだけど、勇菜、鬼のようにペンを走らせてたよね。あれって、全部問題を解いてたの? それにさっき、満点を取るみたいなこと言ってなかった?」
「私が満点取るって言ったら、そんなに変?」
「「正気を疑う」」
即答でハモられました。
勇菜ちゃん、一喜のことを散々バカ呼ばわりしていますけど、人のこと言えないのでは?
「い、今までの私とは違うのよ。本当に勉強してきたの。信じられないって言うなら、問題集のどこでもいいから質問してみなさいよ。なんでも答えてくれるから」
「「くれるから?」」
「答えてあげるから!」
ムキになった勇菜ちゃんが、片っ端から質問を受け付けていきます。
はいはい、ボクの出番ですね。
任せられるところは任せようと思ったんですが……お察しください。
休み時間中、勇菜ちゃんはずっと、ボクの言葉を復唱するスピーカーの役に徹することになりました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あー、やっと終わった。疲れたわー」
『それはボクの台詞ですね。盗らないでください』
一日目は危なげなく終了。勇菜ちゃんが、首をぐるぐると回して凝りをほぐしている間に、ボクはテキパキと帰り支度を済ませます。試験期間中は半日で帰ることができるので、お弁当もありません。
「何慌てているの?」
『急いで帰りましょう。今日だけは、一秒でも早く机に向かわなくては』
「どうして?」
『決まっているじゃないですか。明日は、いよいよ保健体育があります。今回の期末試験における、最大の難関ですからね。今日一日は、すべて保健体育の勉強に充てますよ』
「キモい」
『また褒め言葉と受け取っても?』
「純度100パーセントの蔑みよ。勝手に改竄しないで」
『そこまでしなければ満点を取れないのか、という叱責は、甘んじて受け入れるつもりです』
「そこまでして満点を取りたいのか、というところに呆れているのよ」
文句を言いつつも、早足で廊下を歩いてくれます。
もし、ボクが満点を逃し、万が一にでも一喜に点数で上回られたら、勇菜ちゃんは「なんでも言うことを聞く」という約束を守らなくてはいけなくなりますからね。
他のどの生徒よりも先んじて昇降口に到着し、下駄箱を開けると――。
中からレター用封筒が一通、はらりと地面に落ちました。
勇菜ちゃんが膝を曲げ、それをボクが拾います。
勇菜ちゃんは取り出した外履きを足に引っ掛けながら、小走りで校門を出ました。
周囲には誰もいません。
『もしかして、ラブレターですか?』
「でしょうね」
『勇菜ちゃん、本当にモテるんですね』
「この美貌だもの。しょうがないわ」
ボクたちのヒロインは、謙遜という言葉を知りません。
「差出人、誰から?」
『あ、はい。えーと。封筒には名前がありませんね。開けてもいいです?』
「ええ、帰るまでに読んで、断りの返事を考えちゃいましょう」
『断るのが前提なんですか?』
「試しに付き合ってみるのもアリだって言いたいの?」
『あー、いえ……本音を言えば、断ってほしいです』
「くすっ、弟想いね」
『まあ、お兄ちゃんですから』
一喜、敵は多いみたいですが、応援していますからね。
糊付けされた封筒から、二つに折られた一枚の便箋を取り出し、広げます。
『……パッと見た感じ、どこにも名前が書かれていないみたいですが』
「あ、これ多分、金曜に告白してきた奴だわ」
『え、そうなんですか?』
「出だしが〝先週は、突然俺のような男子から告白されて、驚かせてしまったかと思う〟とか書いてあるもの」
『ああ、本当ですね。でも〝俺のような男子〟とはどういう意味でしょう』
「俺のようなイケメン男子って言いたいんじゃないの?」
『確かにイケメンでしたけど、自分で言いますか?』
そんなはずないでしょう。
とは限りませんかね。すぐ近くに、自分で美貌とか言っちゃう人もいますから。
『聞いていませんでしたが、彼の名前はなんというんです?』
「さあ」
『知らないんですか?』
「名乗られていないもの」
つまり、相手は自分のことを、知っていて当然だと思っているんでしょうか。
うーん、なんでしょう。彼に対して、どうにも良いイメージを抱けません。
『諦めきれずに、今度は手紙で、ということなんですかね』
「面倒臭いったらないわ」
『正直、ボクもそう思いますが、それだけ彼は勇菜ちゃんに本気なんでしょう。真剣な気持ちには、同じく真剣に応えてあげないといけませんよ』
「一銭の得にもならないじゃない」
バッサリいきますね。いっそ清々しいです。
とりあえず、読んでいきましょう。単純に、驚かせたことへの謝罪文かもしれません。
〝先週は、突然俺のような男子から告白されて、驚かせてしまったかと思う〟
〝そのせいで、心にもないことを言わせてしまったのを謝りたい〟
『謝罪文……ですね』
「これ、宛先間違ってない? 心にもないことって、なんの話よ?」
『どうも、告白を断ったのは、勇菜ちゃんの本心ではないはずだと考えているようです』
「私、これ以上はないくらい、きっぱり断ったわよね?」
『はい。少なくとも、ボクにはそう見えました』
「続きを読んだら理解できるかしら」
〝だが、こちらとしても、事前に言っておいてもらわないと困る〟
〝まさか君が、前回のような紳士な振る舞いよりも、押しが強い男の方が好みだったとは〟
「文章飛んだ? これ二枚目?」
『いえ、手紙はこの一枚だけです』
「あれのどこをどうとったら、そういう考えになるのかしら」
『わかりません……』
「ずいぶんと、自分に都合のいい世界をお持ちのようね」
『とりあえず、最後まで読んでみましょう』
〝この学校で、容姿的に俺に釣り合う女子は君くらいだ〟
〝君としても、告白を断ってしまったことを、激しく後悔しているかと思う〟
〝そこで、君のために、もう一度だけ機会を用意してあげたい〟
〝今回の期末試験で、俺は総合一位を取る〟
〝勉強しか取り柄のない世良を贔屓にしていたくらいだから、君は頭の良い男に惹かれるんだろう〟
〝付き合う理由としては充分なはずだ〟
〝君から告白してくるもよし〟
〝恥ずかしいというのなら、また俺からしてあげてもいい〟
〝試験の結果が貼り出された後でまた会おう〟
『……終わりです』
「祝人、手紙を広げて、できるだけ前の方に突き出して」
『え、こうですか?』
言われたとおり、ボクは遠視の人が新聞を見る時や、校長先生が朝礼台の上で表彰状を読み上げる時のように、腕をぐっと前に伸ばしました。
そこへ――。
「くたばれ、勘違い野郎」
勇菜ちゃんの、見事な前蹴りが炸裂。
熱烈な気持ちをしたためたラブレターが、無残にも真っ二つに蹴り破られました。
あえてダジャレを口にはしませんが、ボクもちょっとスッキリしました。
しかし、どうやら一喜の他にも、負けられない相手ができてしまったようですね。
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