第10話 やればできる子なんです

 今日は土曜日。学校はお休みです。

 兄として、一喜かずきの試験勉強の進捗が気になったので、勇菜ゆうなちゃんにお願いして、様子を見に行ってもらうことにしました。


「おばさん、こんにちは」

「勇菜ちゃん、いらっしゃい。一喜なら自分の部屋にいるわよ」

「はい。その前に、祝人のりとにお線香あげていいですか?」

「ええ……そうしてあげて」


 勇菜ちゃんが、一階の和室にある仏壇の前に腰を下ろしました。

 目の前の小さな木箱は、おそらく骨壺が納められているものでしょう。

 言うまでもなく、ボクのです。


『自分で自分にお線香あげるのって、変な感じですね』

「今さらね。葬儀で焼香だってあげていたじゃない」


 ボクが手を合わせ、形だけの礼を済ませました。

 ですが、勇菜ちゃんが、まだ立ち上がろうとしません。


「……この状態は、ずっと続いてくれるものなのかしら」


 仏壇から目を離さず、勇菜ちゃんが呟くように言葉を綴りました。

 ボクが勇菜ちゃんの腕に宿った状態。


「そのうち、祝人は消えちゃったりするのかしら」

『勇菜ちゃん……』

「………ごめんなさい。ちょっと感傷的になっちゃったわね。さ、一喜の部屋に行くわよ」


 立ち上がりながら言った勇菜ちゃんの声は、普段の調子に戻っていました。

 階段を上がって左側にある部屋が一喜の部屋です。

 右側にも同じ大きさの部屋があるんですが、その部屋の主はもういません。

 一喜の部屋の扉を、ボクがトントンとノックしました。


「どうぞ」


 中から一喜の声がし、ドアノブを回して扉を開けます。


「どう? 試験勉強はかどってる?」


 勇菜ちゃんが一喜に尋ねつつ、カーペットに置かれたクッションに座りました。


「あー、いまいち。なんかやる気が出ねえ」

「一喜はやる気が出ようが出まいが、大して変わらないでしょ」

「失礼な奴だな。こんなに勉強してんのは、受験以来なんだぜ?」

「ふーん。じゃあ、わりとやってるんだ」

「試験内容は全然違うけど、一応、勇菜と勝負してるからな」

「ああ、そういえばそうだったわね。でも無理よ。完全完璧完膚なきまでに、言い訳の余地もないくらい一喜が勝てる可能性はゼロだから。そうね、一位をとって、やっと引き分けってところかしら」


 ちょ、勇菜ちゃん、一喜だって頑張っているんですし、その言い方は惨いですよ……。

 ほら、一喜だって顔をしかめてしまっています。


「……それは……兄貴が一位をとるからって言いたいのか?」

「そうよ」


 うーわー、きっぱり言いましたねー。

 これでいよいよ、ボクは一位をとるしかなくなってしまいました。


「今は数学の問題集をやっているの? ああ、そういえば、去年そんなことやっていたわね」


 勇菜ちゃんが、一喜の解いている問題集を覗き込みました。

 つられてボクも見てみます。ふむふむ、懐かしいですね。


『おや?』

「どうしたの? ――え、うん……そうなの?」

「何ぶつぶつ言ってるんだ?」

「あんたが今やっているページの問2、問6、問9の解答が間違いだって言っているわ」

「誰が……」

「自慢じゃないけど、私にはこんな一瞬で、全部解答するなんて芸当はできないからね」


 一喜の顔が、さらに渋面になりました。信じるべきか迷っているといった風ではありますが、まだ8‐2くらいで信じられない方に傾いていそうです。


「あのさ、勇菜は、その……」


 言葉の途中で一喜は視線を落とし、口を閉ざしました。


「何? 最後まで言いなさいよ」


 しばしの沈黙の後、一喜は再び勇菜ちゃんへと視線を戻しました。

 その瞳には、何やら必死さがうかがえます。


「勇菜は……兄貴のこと、好きだったのか?」


 んもおおおお。またですか? またそういう話ですか?

 そういう話は、本人のいないところでやってくださいよ、ほんとに。

 というか、脈絡がなさすぎません? 今どういう流れでそんな話になったんです?


「もちろん好きよ。今まで仲良くやってきたんだもの。当然じゃない」

「そうじゃなく――…………いや、もういい」

「何が言いたいのよ?」

「なんでもねえ」


 え、あれ? 何やら気まずい雰囲気ですね。

 仲介に入りたいですが、どうしていいのかわかりません。

 そんな中、勇菜ちゃんがおもむろに腰を上げました。


「帰るわ。ちゃんと勉強しているみたいだし、せめて平均点くらいまでもっていくのね」


 勇菜ちゃんは、振り返ることなくそのまま部屋を出ました。

 見送りは、ありませんでした。


 ボクには、一喜が勇菜ちゃんに、何故そんなことを問いかけたのかがよくわかります。

 まあ、「今かよ!?」とは思いましたが。

 好きな女の子が、他に好きな人ががいるかどうかを気にしない男はいないですからね。



        ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 一言も発しないまま、ボクたちは勇菜ちゃんの部屋に戻ってきました。


『……勇菜ちゃん、一喜のことですけど』

「わかっているわ」

『え?』

「ラブコメにありがちな鈍感主人公じゃないんだから、一喜がどういうつもりで訊いてきたのかくらいわかるわよ。………というか……さっきわかった」

『勇菜ちゃん……』

「周りは、私と祝人(のりと)のことをそういう目で見るし、一喜も……そうなんでしょうね。でも私は、本当に祝人のことを、そんな対象には見られないのよ。ちょっと癪だけど、祝人は私と一喜にとっての、なんていうか、保護者みたいっていうか、お兄さんみたいっていうか。一喜にとっては正真正銘そうだけど、それは私にとってもそんな感じなの」

『そうだったんですか』


 同い年なのに、お兄さん。ふふ、光栄ですね。慕ってくれているのが伝わってきます。


 ……。


 …………あれ?

 なんでしょう、この気持ち。不満……ではないんですが。

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、胸がチクリと痛みました。


 ……いえ。

 誤魔化しても仕方ありませんね。

 勇菜ちゃんが一喜の気持ちに気づいたように、ボクも気づいてしまいました。

 思えば、女の子に対して可愛いなんて思ったのは、後にも先にも勇菜ちゃんだけでした。

 ボクも、やっぱり勇菜ちゃんのことを、女の子として好きだったんですね。

 思いを告げることなくフラれちゃいましたけど。

 告げたところで、こんな状態ではどうしようもないですが。


 なんて。

 センチっぽく振る舞ってみましたけど、それほどがっかりしたりはしていません。

 勇菜ちゃんには、ボクなんかよりもずっとお似合いの相手がいますから。

 自分の気持ちに気づかせていただいたついでに、もう一歩だけ踏み込んでみましょう。


『では、一喜のことは?』

「一喜?」

『あの子のことは、どんな風に思っているんですか?』


 核心すぎました。一歩のつもりが、走り幅跳びで突撃しちゃった感がありますね。

 それでも勇菜ちゃんは、じっと黙り込み、この問いかけを真剣に考えてくれています。


「……一喜のことは、よくわからないわ」

『嫌っていたりはしないですよね?』

「当たり前でしょ。でも、少なくとも姉弟みたいだとは思ってない」

『なるほど。では、ボクよりは一喜の方が、可能性があるということですか』

「どうかしら。だってあいつ、頼りないもの」

『やればできる子なんですよ?』

「祝人よりできる何かが一喜にあるのかしら?」

『そんなのいっぱいありますよ』

「例えば?」

『そうですねー。んー、パッと思いつくのは、やっぱり運動でしょうか』


 一応、努力はしたつもりなんですけどね。悲しいかな、運動神経を、母さんのお腹の中に忘れてきてしまったのではないかというくらい壊滅的です。


「祝人って、逆上がりできたっけ?」

『そんな大技、できるわけないですよ』

「大技て……」


 自転車には乗れますが、リズムに乗れないのでスキップができません。

 水中に潜れはしますが、息継ぎができないので泳ぐことができません。


「今までよく生きてこられたわね」

『いや、死にましたよ?』

「笑えない」


 落としてきた僕の運動神経は、後から産まれた一喜が拾ってきてくれたようですが、この拾得物は返してもらいようがないので、そのまま一喜のものになってしまいました。


「学年が違うから、あんまり知らないんだけど、あいつって、そんなに運動神経いいの?」

『はい。ボクよりずっと』

「比較対象がお粗末すぎて、凄さが全然伝わってこない」


 勇菜ちゃんは、ボクと一喜に対してだけ、清々しいほどに言葉を包みませんね。

 気を許してくれているからこそだと考えると、それもまた可愛く思えるから不思議です。


「運動ができるなら、どうして部活とかやらないのかしら。中学からずっと帰宅部じゃない」

『ルールを覚えるのが面倒だかららしいですよ。あと、上下関係とかが煩わしいと』

「後者はともかく、ルールを覚えられないって、バカ丸出しね」


 もちろん、本当の理由は別にあります。

 朝練や放課後に部活で時間を取られると、一緒に登下校ができなくなりますからね。

 本人が隠しているので、ボクの口から言いませんけど。


『勇菜ちゃんがマネージャーになれば、一喜は甲子園にだって連れて行ってくれますよ』

「過大評価にも限度があるでしょ」

『確かに、団体競技は勝手が違うでしょうけれど、一喜が、もしボクシングのルールを覚えたならボクシングの。柔道なら柔道の。相撲なら相撲の。どのジャンルにおいても、こと個人競技となれば、グランド・チャンプにだってなれます。そう、明日にでも!!』

「どこのロシア人レスリング選手よ」


 このネタがわかるとは。勇菜ちゃん、ボクの部屋にある漫画を相当読み込んでいますね。

 遺品扱いになってしまいますが、どうぞ、好きなだけ持っていってください。


『とまあ、そんな感じで、ボクが一喜と喧嘩しても、絶対に勝てないでしょうね』

「だから、比較対象が弱すぎて話にならないってのよ。勉強ならともかく、祝人に喧嘩で勝ったって、なんの自慢にもなりゃしないわ」

『むぅ、運動センスはともかく、基本的な身体能力はそこまで酷くないと思いますが』

「私と腕相撲したって勝てないのに?」

『甘く見ないでください。それは中学までのボクです。高校に入ってからは、結構いい勝負をすると思いますよ』

「女子と接戦を繰り広げている時点で、自分の貧弱さを自覚しなさい」


 昨今の女子が強すぎるんですよ。

 絶対そうです……。

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