第9話 あるいは、あと2回変身を残しているかもしれない

 午後の授業には体育があります。しかし残念ながら――ああっ、いえいえ、なんでもありませんよ。

 今日の体育ですが、着替えという心配はありません。試験前のこの期間は、運動ではなく、知識としての保健が実施されるため、教室での授業なんです。まだ激しい運動は、体と腕の連携のことを考えると不安がありましたから、幸いでした。


 そう考えていた時期が、ボクにもありました。

 甘かったです。ウチの学校では、一学期の保健体育の授業を男女別で行っています。

 つまり、男のボクが、女子に混ざって授業を受けることになります。

 二学期、三学期になれば、応急処置の方法とか、飲酒・喫煙・薬物の危険性だとか、男女共通だったりするんけどね。一学期はなんといいますか、小学校から習ってきた身体のしくみのおさらいだとか、性感染症の予防だとか、異性のいる場所で学ぶにはいたたまれない内容だったりするんです。

 ボクだけでなく、勇菜ゆうなちゃんも若干居心地が悪そうです。

 すみません、男が混じっていてごめんなさい。


 どうにか一日の授業をすべて終え、下校の時刻になりました。

 登校は一喜かずきと一緒ですが、帰りは偶然会うでもしない限り別々に帰ります。今日も同様に、一喜はこの場にはいません。


「――琴吹ことぶきさん、ちょっといいかな?」


 昇降口に差し掛かったところで呼び止められました。当然、呼び止められたのはボクではなく、勇菜ちゃんです。

 誰でしょう。覚えのない男子生徒です。他のクラスで見かけたことがあるような気がしますが、ボクは面識がありません。勇菜ちゃんの知り合いでしょうか。


「何かご用ですか?」

「ここじゃちょっと」


 場所を移してほしいということでしょう。このシチュエーションは、もしかして……。

 男子生徒の先導で、昇降口から少し逸れた、人目のつかない場所に移動しました。


「いきなりでごめんね。俺、琴吹さんのことが好きなんだ」


 展開が早いですね。もうちょっと雰囲気作りとかしないんでしょうか。

 それだけ自信があるということなんですかね。


「可愛い子だなって、一年の頃から思ってた。付き合ってもらえないかな?」


 ボクに言われているわけではありません。言われているのは勇菜ちゃんです。そして相手は男子生徒です。決して女子生徒ではありません。だというのに、まるでボクが告白を受けているような気がして視線が泳いでしまいます。


「……ごめんなさい。ご存じかと思いますが、私は今、そういったことを考えられる余裕がなくて。だから、貴方のお気持ちは嬉しいですけれど、応えることはできません。そっとしておいてほしいんです」


 伏せがちな顔と、消え入りそうな声が、とても申し訳なさそうです。

 というか、勇菜ちゃん、告白されることに慣れている感じがしますね。断り慣れているというか。


世良せらのことなら、俺がきっと忘れさせてやれる! だから――」


 対して勇菜ちゃんは、ふるふると首を振り、相手がそれ以上の言葉を発するのを遮りました。


「忘れるつもりはありません。私は一生、祝人(のりと)のことを想って生きていくつもりですから」


 凛とした揺るぎない態度で勇菜ちゃんが言い放つと、相手は、ぐっと言葉に詰まってしまいました。その隙を、勇菜ちゃんは逃しません。


「それでは失礼します。お気持ち、嬉しかったです」


 目の前の男子生徒に一礼をして、再び昇降口へと向かいました。

 その途中で、ボクは思い切って問いかけてみようと思います。


『勇菜ちゃん、今の……』

「本気にとるんじゃないわよ。面倒だから、断る理由に使わせてもらっただけよ。他に好きな人がいるって言うのが、一番手っ取り早いから」

『いつも今みたいな断り方を?』

「向こうが言い出したから、仕方なくよ。実際に祝人の名前を出したのは初めてね。大抵は、出すまでもなかったから」

『どういうことです?』

「祝人が女子に人気あるのに告白はされたことがないっていう理由と同じよ。私の近くに祝人がいたから諦める奴もいたってこと。それでも私の場合は、度々告白されていたけどね」


 ふふん、と自慢げに勇菜ちゃんが胸を張っています。


『そうでしたか。勇菜ちゃん、可愛いですもんね』

「かっ――!?」

『え? なんですか、その反応。可愛いなんて、勇菜ちゃんなら言われ慣れていますよね? さっきの彼だって言っていましたし』

「そ、そうだとしても、あんたに言われたことはなかったから……。ビックリするじゃないの」

『言わなかっただけで、ずっと思っていましたよ? きっと一喜も』


 きっと、ではありませんけどね。


「あんたね、そういうことをさらっと言うの、やめなさいよ」

『さらっと言わないと、別の意味を持ちそうじゃないですか』

「ハ、ハァ? 別の意味って何よ。意味わかんないんですけど? 意味不明なんですけど!?」

『勇菜ちゃん、今めちゃくちゃ可愛いですよ。一喜にも見せてあげたいです』

「死ねばいいのに!」

『もう死んでいるので、代案をお願いします』

「一生黙れ!」


 それもキツいですね。放課後くらいまでで、ご容赦願いたいです。

 しかし、惜しいですね。

 ボクからは勇菜ちゃんの表情が見えないので、この時、勇菜ちゃんがどんな顔をしていたのかまでは、窺い知ることができませんでした。



       ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 さてさて。

 期末試験まで、今日を含めても、勉強できるのは、あと四日しかありません。

 家に帰るや、勇菜ちゃんにはすぐ机の前に座ってもらい、ボクは目の前に広げた問題集にペンを走らせます。


「祝人、あんた……。問題解くの、信じられないくらい早いわね」

『これくらい普通じゃないです?』

「それ、他の誰かに言ったら余計な敵を作ることになるわよ」

『敵ですか。ルビはライバル的な? 燃えますね』

「アベンジャーとか、アサシンでしょ」


 何それ、怖いです。


「なんにしても、この調子なら、英、国、数、理、社は心配なさそうね」

『はい。ネックになるのは、やはり保健体育だと思います』

「保健体育に一番苦労する奴なんて、祝人くらいよ」

『そうは言いますが、ボクにとっては未知の領域なんですよ』

「副教科なんて学年順位には関係ないんだから、適当でいいじゃない」

『適当では駄目です。目指すは完全無欠の一位。副教科といえども、トップを譲るわけにはいきません。明日は一日、保健体育の勉強にあてることにします』

「時々、あんたって、頭いいのかアホなのか、わからなくなるわ」


 ボクは自分が頭いいなんて思っていませんよ。だからこうして勉強するんです。

 ふむふむ。男性用避妊具については存じていましたが、女性用のものもあるんですね。なるほどなるほど、ほほう。そのような仕組みが。うーん、興味深い。


「ねえ、マーカー引きすぎじゃない?」


 言われてハッとしました。

 気づけば、資料のすべてに黄色のアンダーラインを引いてしまっています。


『一つたりとて取り零せない、大事な内容ばかりだったので、つい』

「真剣すぎ。キモい」

『正味な話、高校生にとって、一番大事な教科は保健体育なんじゃないでしょうか』

「アホね。今確定した」

『それにボクは思うんです。男は女性について、女性以上の知識を身につけておくべきだと。身体への負担という意味では、やはり男よりも、女性の方が重いものですから。そんな女性を支えるのは、男として当然の義務です。そのためにも、ボクはまず、世界中のありとあらゆる避妊法を学ぶ所存です』

「うん、引くわ」

『すみません、この資料で引くところがもう残っていません』

「ありすぎて困るくらいよ」


 それはつまり、ボクには見えていないところまで、勇菜ちゃんには見えている?

 そういうことでしょうか。ならば、迷う余地はありません。


『勇菜ちゃん、ボクに保健体育を教えてください』

「ハ? セクハラなんですけど? まさか、直に触りたいとか言うんじゃないでしょうね?」

『いえ、触りだけでなく、もっと深いところまで知りたいです』

「ふ、深いところッ!?」

『はい、(見識を)広げたいと思っています』

「広げッ!?」

『勇菜ちゃんの協力が必要なんです。ボクだけでは限界がありますから』

「そりゃ、男のあんたじゃ無理だろうけど……。でも、インターネットとかで調べれば」

『何を言うんです。せっかく身近に勇菜ちゃんという優秀な教師がいるんですから、頼らない手はありませんよ』


 腕だけに。


「だ、だからって……。あんた、そういうこと言うキャラじゃなかったでしょ……」

『ボクだって、恥ずかしい気持ちはあります』


 でも、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ともいいますから。


「……本気なの?」

『本気も本気です』

「どうしても……知りたいの?」

『この想いは、止められるものではありません』


 自分自身、こんなにも興味を惹かれるとは思っていませんでした。

 試験で百点を取るため。きっかけはそれでしたが、今ではもう、飽くなき探求心が独り歩きしてしまっています。気持ち的には、保体王にボクはなる、とでも宣言し、大海原へと旅立ちたいくらいです。

 長い、長い沈黙が流れました。


「…………わかったわ」

『了承していただけましたか!』

「祝人がどう思っていようと、こんな状況になった原因は、私にもあるし……。そのせいで、あんたはもう、一生女性に縁がなくなっちゃったわけでしょ。だったらその償いを、私がするのは当たり前なのかも……」

『あの、あまり重く捉えないでほしいんですが』

「こんなこと、軽い気持ちでできるわけないでしょ! 今だって、顔から火が出そうよ」

『意外です。勇菜ちゃんなら、ここぞとばかりに「ぷぷー。こんなことも知らなかったの? 情けないわねえ。ほらほら、教えてあげるから、ちゃんとお願いしてみなさい」と(知識を)ひけらかすようにして、ボクをからかってくるかと思っていました』

「あんたの中で、私はどんだけ痴女なのよ!!」


 むむむ。

 どうやら女子と男子では、保健体育に対する認識に、埋めがたい差があるようですね。

 もしかしたら、女子だけに許された秘伝。門外不出の知識なのかもしれません。


 ……知りたい。

 秘密であればあるほど、その知識に触れてみたい。

 ですが、勇菜ちゃんに無理をさせるわけにはいきません。


『勇菜ちゃん、お気持ちだけいただいておきます。満足できるかわかりませんが、ボク一人でやれるところまでやってみますから』

「ひ、一人で?」


 それだと、教科書以上の知識は得られないでしょうけれど。

 琴吹家にもパソコンはありますが、ボクの勝手で、長時間お借りしてしまうのは気が引けてしまいます。残念ですが、保体王の夢は諦めるしかないですね。

 と、思いきや、この話題はまだ続くようです。


「ね、ねえ……。祝人は、その、普段から一人で……よくやるの?」

『いえ、いつもは試験前だけですね』

「試験前……なんとなくわかるわ。テスト勉強しなきゃって思えば思うほど、無性に別のことをしたくなるものね。私もついつい――……て、何言わせるのよ!」


 何を言わせてしまったんでしょう。わかりません。


「でも、試験前だけって、少ない方なんじゃないの? や、なんとなくそう思っただけなんだけどね!? 男子はほら、溜めすぎると体に良くないとかって聞くし」

『確かに、試験前に限らず、普段からもっと(勉強)しておくべきだったと考えを改めていますが、(知識は)いくら貯めても貯めすぎということはありません。いつどこで役に立つかもしれないですからね』

「いつどこで役立てる気なの!?」

『それはわかりませんが、勇菜ちゃんといる時かもしれませんね』

「そそ、そんなこと考えていたの!?」

『はい、いつだって考えていました』

「何こいつ、エロすぎ!」


 偉すぎだなんて、言いすぎですよ。

 ボクは運動がからきしですからね。その分、知識で皆を助けられればと思っていました。

 そして知識なら、今の状態でも失うことはありません。俄然、やる気が出てきます。


『もちろん、勇菜ちゃんだけでなく、一喜のことも考えていますよ』

「一喜にまで手を!? あんた、いったい何を目指しているわけ!?」

『正義の味方です』

「性器の見方!? 一人でやるって言ったくせに、やっぱり広げるつもりなのね!?」


 さっきから、勇菜ちゃんのテンションが異様に高いです。


『ともかく、(保健体育に関して)精通しておいて損はないと思うんです』

「え? ちょ、ちょっと待ってよ。祝人……まだ精通していなかったの?」


 最初からそう言っていたつもりなんですが、どこかで話に齟齬があったんでしょうか。


『今は、ようやく毛が生えた程度ですね』

「ようやく毛が生えた程度……。高二なのに、祝人、まだそんなだったんだ……」


 なんでしょう。すごく哀れまれている感じがします。

 ボクの知識不足は、そんなにも可哀想なレベルだったんですか。

 無性に焦りが募ってきました。


『やっぱり、勇菜ちゃんにお願いしたいです!』

「うう……そうくるわよね……」


 ボクは両手を組み、祈るようなポーズで懇願しました。傍から見れば、勇菜ちゃんがやっているようにしか見えませんが。

 そうして、何度も何度も、お願いしますと連呼します。


「ああもう、わかったってば! いい!? 言っておくけど、誰にでも見せるわけじゃないからね!」

『わかっています。トップシークレットなんですよね。秘密は墓まで持っていきます』


 おっと、四十九日が過ぎたら納骨するんでした。期限を決めるのはよくないですね。


「私がこんなに体を張るんだから、一喜には変なことしちゃダメだからね! 兄弟でしょ! ていうか、男同士でしょ!」

『それはまあ、一喜にもプライドがありますからね。時と場所は選びます』

「時と場所を選んでもやるな!!」


 それは、一喜にはボクの助けなんて必要ない。兄なら、黙って弟の成長を見守っていろ。

 そう言いたいのでしょうか。

 だとすると、ふふ、なんだか嬉しくなってしまいますね。

 勇菜ちゃんは、ボク以上に一喜のことを考えてくれていたようです。


『勇菜ちゃんの言うとおりにします。だから、お願いします』

「……じゃあ……そこの鏡、取ってよ……」

『鏡? 鏡を使うんですか?』

「そうしないと……あんただって見えないでしょ?」

『何を見るんです?』

「何をって……え?」


 とりあえず、指示されたとおり、チェストの上に置いてあったスダンドミラーを机の前に置きましが、ここからどうするのか、想像も及びません。


『あ、メモを取らせていただきますね。鏡以外にも必要なものはありますか? いやー、わくわくしますね。いったいどんな話を聞かせていただけるんでしょう』

「話?」

『あ、教科書に載っていることは一通り覚えたので、基本だけは押さえています。その代わり、内容に関する勇菜ちゃんの解釈は聞いておきたいですね。男性視点と女性視点、双方の理解を踏まえて、初めて知識足るのだと思いますし』

「………………」


 あれ? 急に黙ってしまいました。

 鏡に映る勇菜ちゃんは俯いており、前髪で隠れて表情が見えません。

 それと、心なしか、肩が震えている気がします。

 なるほど、知識を披露できることへの武者震いですね!

 秘密であればあるほど知りたくなるのと同じように、誰かに話したくなるのも人の業。

 安心してください。ボクは口が堅いです。存分に語ってください。


『精通とは程遠い無学なボクについていけるでしょうか。ちなみに、どのあたりからやりますか? ボク的には、第二次性徴期における心の変化を男女別で掘り下げていったりしてみたいですね。というわけで、さあ、いつでも始めてください』

「始めるも何も、あんたを殺して私も死ぬ。それで終わりよ」

『勇菜ちゃんの変化についていけません!』


 いったい何が起きたのか、勇菜ちゃんが突然に、腕に噛みつこうと襲い掛かってきます。

 サイドテールを歌舞伎役者のように振り乱し、ちらっと見えた鏡の中の彼女は赤鬼のように真っ赤になっていました。もはや人の形を留めていません。


『もしや、これが女性の第二次――いえ、第二形体ですか!?』

「がうがうががががうう!!」


 結局その日は、ザ・ビーストと化した勇菜ちゃんの猛攻を防ぐのに必死で、試験勉強どころではなくなってしまいました。

 女性とは、男には到底推し量ることのできない謎に包まれた生き物である。

 甘噛みまでなら耐えられるフィールドをやすやすと突破してくる勇菜ちゃんに、腕を歯型だらけにされながら、ボクはそれだけを教訓として学んだのでした。

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