第7話 ボク(はできますが、勇菜ちゃん)たちは勉強ができない
「お母さん、ちょっと髪を結んでくれないかしら」
翌朝――
昨日の朝は、トイレ事情でそれどころじゃなかったため、適当に髪を梳いただけでしたが、勇菜ちゃんは、いつも頭の中心からやや左にズラしたところで一本に結んでいます。
これからはボクが結ばなくてはいけないため、おばさんからやり方を学ぼうと思ったわけです。
「勇菜、もう学校行って大丈夫なの?」
おばさんが、勇菜ちゃんの髪をブラシで梳かしながら、心配そうに訊いています。
「もう大丈夫よ。心配しないで」
「……ならいいんだけど。勇菜、
「そそ、そんなことないわよ?」
「昨日もだけど、今朝だって、トイレに入ったら、狂ったようにタンバリンを鳴らしているでしょ? あれは……」
すみません。鳴らしているのはボクです。
「あー、えっとね、最近、ちょっと便秘気味なの。それで、気合いを入れていたのよ」
「そう……なの? 変わっているわね。あ、冷蔵庫に、ヨーグルトがあるから」
「ありがとう、後で食べておく……」
納得しきれない様子ではありますが、おばさんはそれ以上追及してきませんでした。
『勇菜ちゃん、女の子がする言い訳として、今のはどうかと思うんですが』
「うるっさいわね!」
「い、勇菜?」
「ああっ、違うの! お母さんに言ったんじゃないから!」
娘を心配するおばさんの鎮痛な心情が、手に取るようにわかります。近いうちに、カウンセリングとか受けさせられるかもしれませんね。
しばらくすると、髪も整え終わり、朝食を食べ始めました。朝はトーストなので、それほど難儀することはありません。飲み物ですが、昨日の反省の後、ストローという画期的な利器が存在することを思い出したので、もうあのようなミスを犯すことはないでしょう。
朝食を済ませ、制服に着替えます。もちろん、ボクは目を閉じています。
ブラジャー着用は……保留になりました。
制服に着替え終え、学校指定の鞄を右手で持ちます。
「……何か、体が右に傾くわ」
感覚がなくとも、全体的に見れば、勇菜ちゃんが支えているのと変わりありませんからね。
いつもと同じ朝、いつも決まった時間にボクたちは家を出ます。そうやってボクたち三人は連れ立って登校していました。そんな当たり前だった光景の中に、ボクはもういません。
「おはよう
「……おはよう」
一喜の顔色が優れません。ちゃんと眠れなかったんでしょうか。
「勇菜、大丈夫か?」
「私より、一喜の方が大丈夫か訊きたいわよ」
「俺は、大丈夫だ。もう吹っ切れたから」
とてもそうは見えませんが……。
『勇菜ちゃん、さっそくですが、ボクのことを説明してもらえますか?』
「わかったわ」
肌がヒリつくような空気を纏った勇菜ちゃんが、一喜を正面から見据えました。
「一喜、信じられないような話だけど、聞いて」
「なんだよ?」
「祝人はね、まだこの世にいるの。私の体に寄生しているのよ」
勇菜ちゃんに悪気はないんでしょうが、ちょっとグサッときてしまいましたよ。
「勇菜……」
「ああストップ、タイムよ。あんたの今の顔、ウチのお母さんとまったく同じだわ」
これだけで信じることができるなら、その人は、将来悪質な詐欺にあって泣きを見ることになるでしょう。簡単に連帯保証人などになってはいけませんよ。
「待って。実際に祝人と会話すれば、信じられるかもしれない」
『筆談ですか?』
「そうよ。紙とペンを使ってやってみて」
一喜には勇菜ちゃんが独り言を喋っているようにしか見えないため、眉をひそめています。
ボクは鞄の中からノートとシャープペンを取り出し、文字を書き連ねていきました。
〝おはよう一喜、顔色が悪いですよ。昨夜はあまり眠れなかったんですか?〟
「これがどうしたんだ?」
「バカ! こんなの誰だって書くわよ。祝人だってわかるようなことを書きなさいよね」
『ああ、そうでしたね。気になったものですから』
再びボクはペンを走らせました。
〝まずは状況を説明します。一喜の言葉はちゃんと聞こえていますから、一喜が字を書く必要はありません。ですが、ボクの声は勇菜ちゃんにしか聞こえないので、筆談という形をとらせてもらいます〟
「勇菜、何これ?」
「黙って見ていなさい」
〝事故のこと、一喜も気にしているでしょうけれど、自分のせいなどとは決して思わないでください。一喜に非はありません。自分を責める一喜を見る方が、ボクは辛いです〟
これはまだ、信じてもらおうと思って書いているわけではありません。
何を置いても、最初に伝えておきたかったんです。
「勇菜、俺のことならいいよ。勇菜だって、自分のことで今いっぱいいっぱいだろ?」
一喜はどうも、勇菜ちゃんが自分のことを心配して、こんな芝居をしていると考えているようです。
「まあ、これだけじゃ、当然の反応よね。祝人、続けて」
〝どうやら、ボクは勇菜ちゃんの腕にとり憑いてしまったようなんです。今、勇菜ちゃんの両手を動かしているのはボクです〟
一喜の眉間に、より一層深いシワが刻み込まれていきました。
〝突拍子もない話なので、信じてもらうのは容易ではないでしょう。ですから、いくつか一喜に信じてもらうための方法を考えてきました〟
「うん。それ、私も気になっていたのよね」
勇菜ちゃんの声が、待っていましたとばかりに喜色ばみました。
〝まずは小手調べです。なんでもいいので、勇菜ちゃんには答えられなくて、ボクになら答えられるような質問をしてみてください〟
「ふんふん、言われてみれば妥当な案ね」
「えっと……俺が何か質問すればいいわけ?」
「そうよ」
信じる信じないというよりも、一喜の様子は、勇菜ちゃんの奇行に渋々付き合っているといった感じです。
「じゃあ、今の総理大臣の名前を書いてみて」
「バカにするな!」
勇菜ちゃんが、思い切り一喜の足を踏みつけました。腕が自由に使えたなら、鉄拳が飛んでいたかもしれません。
にしても一喜、今のは勇菜ちゃんに失礼ですよ。
「わ、悪かったよ。なら、バラを漢字で書いてみてくれ」
〝薔薇〟
ボクはスラスラと書いて見せました。漢字は得意なんですよね。
一喜が目を見張りました。驚いているようですね。続けて、別の課題が出てきます。
「368×694は? 暗算で」
〝255392〟
暗算も得意なんですよね。五桁同士の掛け算くらいまでなら即答できます。
一喜は自分のスマホで解答を確認しています。
「マジかよ……」
あのリアクションは、正解だったようですね。
「勇菜、いつの間にこんな……」
むむ、まだ信じてはいないようです。では、第二案にうつりましょう。
『勇菜ちゃん、今からちょっと、勇菜ちゃんの知らない一喜の秘密を書きますので、勇菜ちゃんは目を瞑っていてもらえますか?』
「え? 何々? 一喜の秘密? 私も見たいわ」
『我慢してください』
「はいはい、わかりましたよーだ」
『もし覗いたら、お返しに今日のお風呂、ボクは目を開けてしまうかもしれません』
「覗かないわよ!」
実を言うと、この秘密をボクが知っているということは、一喜自身も知らないんですが、背に腹は代えられません。許してください。
ボクは心の中で一喜に謝ってから、ノートに一喜の秘密を書き記しました。
〝一喜は小学生の頃から、ずっと勇菜ちゃんのことが好きでしたね〟
「んなっ!?」
「なんなの? なんて書いたの? めちゃくちゃ見たいわ」
『見ちゃダメです』
「な……え……勇菜……これ、気づいて?」
「なんのことかわからないけど、書いているのは、私じゃなくて祝人よ」
勇菜ちゃんは言いつけどおり、目を閉じてくれています。
「い、いや……本当に? そんなまさか……。でも、兄貴なら……」
これでもボクは一喜のお兄ちゃんですよ? 愛する弟のことなら、なんでもわかります。
「ち、違う! 兄貴は死んだんだ! これだって、勇菜が適当に書いただけだろ!? 残念だけど、間違ってるしな!」
「え、間違っているの? 祝人、どういうこと?」
『間違っていませんよ。一喜の嘘です』
一喜は頭をブンブンと振って、目の前の出来事を信じようとしません。
『やれやれ、仕方ないですね』
「どうするの?」
『あと一つ方法はあります。ここまでで信じてくれたのなら、適当な点数を取るつもりだったんですけど』
「点数って、え? まさか」
『はい、今度の期末試験、ボクは絶対に学年一位を取ります』
「ちょっ! いくらなんでも一位はまずいわよ! 前回の私の順位を知らないの!?」
『だからこそ説得力があるんですよ。これ以上の案は、ボクには思いつきません』
「で、でもぉ……」
「おい勇菜、本当に大丈夫なのかよ!?」
一喜視点だと、勇菜ちゃんが百面相をしながら延々と独り言を喋っているように見えるんですから、心配にもなるでしょうね。
「……ええ、問題ないわ。いや、大ありだけど」
『勇菜ちゃん、覚悟を決めてください』
「…………もう、わかったわよ」
特大の溜息をついた勇菜ちゃんが、項垂れたまま、今決まったことを一喜に説明します。
「あのね、祝人が今度の期末試験で、私に学年一位を取らせるって。一位になったら、自分がここにいることを信じろって、そう言っているのよ」
「一位? 勇菜が? それはありえないだろ」
「そうよ。ありえないのよ。だから、そのありえないことが起こったなら、あんたも大人しく信じなさい」
勇菜ちゃんの言葉にフザケた様子は欠片もありません。真剣な言葉は、ちゃんと相手の心に響くものです。
ようやくですね。一喜もまた、勇菜ちゃんの視線を真っ直ぐに受け止めてくれました。
「わかった。勇菜が学年一位になったら……信じる」
「だ、そうよ?」
『これで本気を出さないといけなくなりましたね』
「絶対後で職員室に呼び出されるわ。カンニングしたと思われたらどうするのよ」
『そうなったら、その時はその時でフォローしますから』
「……はぁ……」
学校までの道のりで、コールタールのように重くてまとわりつく勇菜ちゃんの溜息を何回も聞きながら、ボクはかつてないほど、試験に対するやる気を燃やしていきました。
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