第6話 おっぱいが嫌いな男なんて存在しない
翌朝、
ああ、そうそう。
ちょっと話が逸れますが、自分のことで、新たにわかったことがあります。
三大欲求のうち、食欲については昨日話したとおりです。
その他二つについて、ボクなりの推測を述べておきましょう。
睡眠欲ですが、食欲と同じくなくなりました。昨夜、勇菜ちゃんの寝息を羊代わりに数えていましたけど、夜が明けても眠気がやってくることはありませんでした。どうにもボクは、人間の枠から完全に逸脱した存在になってしまったようです。
そして、もっとも深刻なのが……性欲です。
これ、残っています。勇菜ちゃんの吐息を間近で聞き続けるのは、かなり辛いものがありました。腕だけは動かせるものですから、呼吸に合わせて上下する膨らみに、思わず手が伸びそうになったりならなかったり。いや、耐えきりましたけどね。
家に帰ってウォシュレットを取り付ける頃には、勇菜ちゃんも色々と限界だったようです。ついでに百均で購入したタンバリンをトイレの中に持ち込み、最初から最後まで、盛大に打ち鳴らすようにとの厳命を申しつけられました。
「……何か、大事なものを一気に失った気がするわ」
『返す言葉もありません』
「腕じゃなくて足だったら、もう少し楽だったかもしれないわね」
『でしょうね』
「はぁ……」
勇菜ちゃんが溜息をついていると、ボクもいたたまれなくなってしまいます。
どうにかして、元気を出してもらいたいですね。何か、この状態にメリットを見出せないかと思考を巡らせます。
そしたら、あるじゃないですか。勇菜ちゃんに喜んでもらえる耳寄りな情報が。
ですが、勇菜ちゃんのためを思うと、正直、躊躇われてしまいます。
とはいえ、どのみち回避はできないんですが。
『勇菜ちゃん』
「…………何よ?」
声に若さが感じられません。まるで、育児に追われる三十代女性のようです。
『勇菜ちゃんの腕をボクが奪ってしまったことで、勇菜ちゃんの得になることがあります』
「そんなのあるの?」
『はい。まず、荷物を勇菜ちゃんが持つ必要がなくなります』
「はんっ」
鼻で笑われてしまいました。
予想はしていましたが、この程度のことでは効果がないようです。では次。
『他には、授業中、勇菜ちゃんは先生の話を聞いているだけで楽ができます。ノートはボクがとることになりますから』
書くことも覚える助けになるので、あまり勇菜ちゃんのためにはならないんですけどね。状況が状況なので、仕方ありません。
「まあ、それはちょっと楽かもね。普段からあんまりノートなんてとってないけど」
何やら引っかかる発言だった気もしますが、とりあえず置いておきましょう。
今のは少しだけ効果がありました。しかし、それでもデメリットを補うには、まだまだ足りないようです。ならば、とっておきのカードを切りましょう。
『最後にですが、勇菜ちゃんはペンを持って字を書くことができません。それに、ボクの声は勇菜ちゃんだけに聞こえますが、ボクが勇菜ちゃんの声を聞こうと思えば、勇菜ちゃんは声に出さないといけません』
考えていることが伝わるというのであれば問題ないんですが、そうではないのです。
いえ、問題なくはないです。考えているだけで相手に伝わるのだとしたら、新たにプライバシーの問題などが浮上してしまいますので、どちらがよかったのかは甲乙つけられません。
そのプライバシーも守られているのかと言えば、甚だ疑問でしょうが。
「だから何?」
『声に出すという行為は、試験中にはできません。ということは』
「ということは?」
『今度の期末試験、勇菜ちゃんの代わりに、ボクがすべてやらなくてはいけません』
「な、なんですって!?」
勇菜ちゃんが驚愕しています。得になるとか失礼なことを言ってしまってすみません。日頃の勉学の成果を発揮する機会を奪ってしまったボクを許してください。
「
『…………………………恐縮です』
いやまあ、この反応も予想していたんですけどね。
打って変わってご機嫌になってくれた勇菜ちゃんですが、ここから先もその態度では浮いてしまいます。近所の集会所では、着々と今日行われる葬儀の準備が進められ、勇菜ちゃんの部屋の壁には喪服が吊ってあります。この黒い服を見ると、ボクは本当に死んでしまったんだという実感が、否応なしに湧いてきます。
そして夜になり、ボクの葬儀が始まりました。
親類縁者や、お世話になっていた知人友人たちが参列してくれています。同様に、ボクと勇菜ちゃんも会場に来ています。会場に入ってすぐの所に香典の受付係の人が――あれは親戚の叔母さんですね。ご無沙汰しています。
香典は遠慮しているようなので、そのまま奥へと入ります。仕方のないことですが、全員が喪服を着て一様に暗い雰囲気を醸し出しています。喪主の父さんは雑用をせずに、故人――この場合はボクのことですが、ボクの遺体の傍で、来訪者からの弔問を受けています。弔問とは「おくやみ申し上げます」といった慰めの言葉のことです。
母さんや勇菜ちゃんのご両親は、来訪者の案内や接待などで、休む暇なく働いてくれています。
一喜は、今は遺族席で、じっとボクの遺影を見つめて座っていました。
『一喜も疲れた顔をしていますね』
「どうする? 今説明しに行く?」
気持ちとしては、少しでも早く話しに行きたいんですが、この場ではまずいでしょう。最悪の場合、会場がパニックになることも考えられます。まあ、九割九分九厘、勇菜ちゃんの頭が変になったと思われて終わりでしょうが。
『明日学校へ行く時、一喜だけになったら話してみましょう』
「そうね」
その後、ボクたちも焼香を終え、つつがなく葬儀を終えました。
そして、出棺――。
これから火葬場へ、ボクの遺体が運ばれます。
「私、行きたくないわ……」
『そうですね。ボクも、自分の体が焼かれるところには立ち合いたくありません』
ボクたちは、勇菜ちゃんのお母さんに一言伝えてから、家に帰ることにしました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ついにこの時がきました。
ボクたちは今、浴室にいます。お風呂に入るのですから、当然、勇菜ちゃんは裸です。
その勇菜ちゃんの裸体を、今朝買ってきた電動ブラシで、他ならぬボクが洗っていきます。
もちろん、見ざる聞かざる想像せざるを貫きます。事前に精神統一を終えたボクの前では、ラッキースケベなど、入り込む余地もありません。
素数は既に五桁を唱え終わったので、次は円周率に入ります。
「あは、あははははっははや、いやはあはははははくす、くすぐったはははは!」
『3.14159265358979323846264338327950288419――』
ビィ――――ンウィ――――ン
「の、祝人(のりと)、あははっはも、もういいわあは、と、止めてはははははは!」
『0628620899862803482534211706798214808651――』
ブゥイィ―――――――――ン
「あ……んあっ……ちょ、そこは……や、ダメ、んんっ!」
『2847564823378678316527120190914564856692――』
ウゥゥィ―――――――――ン
「も、いい、加減んふぅぅ、ん、んん……や、めろって、言ってんのよ!! この変態!!」
『痛いっ! い、いきなり何をするんですか』
目を瞑ったまま不平を漏らします。
あろうことか、勇菜ちゃんが、体当たりで壁に腕をぶつけるという凶行に出たんです。
「はあ、はあ……。あんたがやめないからでしょうが!」
『やめろって言いました?』
「何回も言ったわよ! あんたがあんなところに……あんな風に……」
『すみません。述語と目的語を明確にしていただけますか』
「め、明確にって……バ、バカ! バ――――カ!!」
どうやら、ボクは言葉にできないような、とんでもないことをしでかしていたようです。
『だからって、自分の腕を壁にぶつけることはないでしょう』
「私は痛くないわ」
ボクはすこぶる痛かったです。
『この腕が勇菜ちゃんのものであることには変わりないんですから。乙女の柔肌に傷でもついたらどうするんです』
「祝人がもっとしっかりすればいいだけの話よ」
『…………善処します』
つくづく男は弱い立場ですね。ボクと勇菜ちゃんに限ったことなのかもしれませんが。
「けどま、他の男じゃなくてよかったとは思っているわよ」
『それはまたどうして?』
「あんたくらいの男子だと、普通、こういう状況なら、ここぞとばかりにやらしいことをしようとするものなんじゃない? 祝人はしたいと思わないの?」
答えろと? なんの羞恥プレイですか?
「ねえ、言いなさいよ」
勇菜ちゃん、声が妙に弾んでいませんか? こちらの反応を面白がっている様子がひしひしと伝わってくるんですけど。自分が真っ裸だってこと、忘れていません?
「ま、祝人の草食っぷりは、よく知っているから安心っちゃ、安心だけどね」
あまり男をからかうものじゃありませんよ。
今だって、ちょっと手を滑らせたり、ちらっと目を開いたりするだけで、勇菜ちゃんあられもない姿を堪能したり……なんて、絶対しませんよ。ええ、考えすらしません。まさにここが紳士として踏み留まれるかどうかの境界線なんですから。
とはいえ、そりゃボクだって健康な男子高校生です。死んでいるので、健康と言えるのかは怪しいところですが、興味がないわけではありません。むしろ、三大欲求のうちの食欲と睡眠欲が消えた分、生物的な欲求が性欲に集中していると言っても過言ではないです。
『勇菜ちゃん、ボクも男です。本性はオオカミかもしれませんよ』
「あっそう」
『ですが、目先の欲望に屈するつもりはありません。一喜や勇菜ちゃんの信頼を裏切ることは、死よりも恐ろしいことだとボクは考えています。ですから、勇菜ちゃんも協力してください。ボクたちが力を合わせれば、どんな困難だって乗り越えられるはずです』
「そんなことより、やっぱりブラジャーは着けた方がいいかしら。今日一日、ずっと乳首が擦れていたせいで、ちょっと痛いのよ」
『あの……勇菜ちゃん?』
「それに厚手のシャツを着ていると、いつもより汗かいちゃって、胸に汗疹ができそうだし。まだ成長期だから、ノーブラだと形が崩れちゃわないかも心配なのよね。やっばいわー」
『勇菜ちゃん、そこまでです!』
協力してって……力を合わせてって言ったそばから。
「な、何よ、急に大声出したりして。それよりも祝人……なんだか息が荒くない? まさか、本当に変なことしていたりしないでしょうね」
『正直……危なかったですよ……。どうにか踏み止まれましたが、ボクじゃなかったら、今頃勇菜ちゃんは無事では済まなかったでしょう。あまり刺激の強いことを言わないでください。女子の口から〝おっぱい〟はNGワードです』
「おっぱいなんて言った覚えないんだけど」
『形が崩れないか心配だ。おっぱいがー。と言いませんでした?』
「どういう耳してんのよ。頭大丈夫?」
自信がありません。耳も頭もなくなってしまったので。
「というか、今のでダメなの? 男子って、大変なのね……」
ええ、大変なんです。女子が薄着になる、この時期は特に……。
断言しますが。女子のおっぱいが嫌いな男子高校生なんて存在しません。
湯船でリラックスする気にもなれず、ボクたちは早々に浴室を出ました。
濡れた体にぽんぽんと、わずかな感触すらも許さないよう、タオル三枚重ねで当てて水気を拭き取っていきます。その際に、ボクは取り返しのつかない大罪を犯してしまいました。
自分の身体基準で行ってしまったため、男には存在しない上半身の凸部分に、手首がほんの一瞬ですが、直絶触れてしまったのです。
それだけで理性が飛び、我を忘れそうになりましたが、火照った腕も瞬時に凍りつかせるような勇菜ちゃんの舌打ちが、ボクの精神を平常に保ってくれました。
「次はないから」
斬り落とされる。そんな予感が、確かなヴィジョンとなって目に浮かびました。
昨日に続き、今日もいろいろなことがありすぎて、もうくたくたです。
何も考えず、明日に備えて休むとしましょう。
それにしても。
………………………………………………………………………
……………………女の子の胸って、あんなに柔らかいんですね。
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